蒋経国という生き方#11/僕ら夫婦は両蒋文化園区を訪ねなかった
帰国前日の夜、ホテルのコンシェルジェに「明日の朝、慈湖陵寝に行きたいんだが」と相談した。
「クルマをチャーターされるといいでしょう。」という回答だった。
ホテルからの所要時間は1時間半くらいだという。
「慈湖陵寝?大溪へ行かれるのですか?美しい処ですよ。ぜひ早く出発されて、朝風に当たられると宜しい。清涼な素晴らしいところです。」コンシェルジェが言った。
「いや、両蒋の墓所を訪ねたいんだ。慈湖陵寝だけで良いんだが。」
「慈湖陵寝だけで?」コンシェルジェが小さく首を傾げた。
慈湖陵寝は、蒋介石/蒋経国父子の遺体が安置されている施設だ。両蒋文化園区という。
台北から40km程度、国際空港がある桃園県にある。 日本人夫婦が、チェックアウトの日に蒋介石/蒋経国の墓所へ寄ってから帰国したいと言ったのが、よほど不思議だったらしい。
「チャーターしますか?」聞かれた。
その旨、家人に聞いてみた。
「バタバタするが、明日の帰国の便の前に慈湖陵寝を訪ねてみようと思うんだが。」
「慈湖陵寝?」
「蒋介石/蒋経国父子の遺体が安置されているところだ。両蒋文化園区になっている。慈湖陵寝の”慈湖Chihu”という名前は、蒋介石が付けたらしい。蒋介石は其処をとても気に入っていたという。」
「蒋経国さんも?」
「どうだろうか?それは分からない。しかし父に随行して眠るのは彼らしい。」
「ファイナさんは? 奥さんと一緒に安置されていないの?」
「されていない。父と一緒だ。」
「どうして?」
「どうして・・って。そりゃその・・」と僕が口ごもっていると、家内がきっぱりと言った。
「行かない。ファイナさんがいないなら行かない。男たちの我がままが、仲の良かった夫婦の永久の眠りを割いているなら、私は行かない。」。
返す言葉がなかった。
ファイナの晩年は哀しい。最愛の夫を88年に失った翌年、三人息子の一人を失った。そして1991年にもう一人、97年に一人。我が子が自分より早く逝くほど哀しいことはない。 そして2004年12月25日、死の直前の枕元で彼女は聞いた。「私は、夫と共に埋葬してもらえるの?」
彼女の願いは叶えられていない。
たしかにそれは男たちの我がままだ。
「論語・子路」第13-18にこうある。
葉公語孔子曰。吾黨有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰。吾黨之直者異於是。父爲子隱。子爲父隱。直在其中矣。
葉公、孔子に語りて曰く、吾党に直躬なる者有あり。其、羊を攘みて、而して子、之を証せり。孔子曰く、吾党の直き者は是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其中に在あり。
蒋介石は、糟糠の妻との間に生まれた子・蒋経国に徹底的な洋才漢魂を叩き込んだ。 半ば人質のように少年期/青年期をロシアで過ごした蒋経国は、一時共産主義一色に染まったが、魂はそのまま父が望んだ漢人のものだった。共産主義が持つ二面性に晒されたとき、彼はオノレの中に父の教えを見たにちがいない。
蒋経国は、ファイナと子を伴って帰郷すると、すぐさま父に付随した。そして父の手足となった。あるときは父の闇を背負った。 「孝に殉ずる」という言葉ほど蒋経国に相応しいものはないと僕は思う。 まさに「殉じ」たのである。
・・というならば「忍耐」という言葉ほど、蒋経国夫人ファイナに相応しいものはないかもしれない。 この夫婦は夫唱婦随を通した。仲の良い夫婦だった。その二人の関係を支えたのは間違いなくファイナだったと僕は思う。
蒋経国が総統だった時代、ファイナは「沈黙するファーストレディ」と呼ばれた。父蒋介石の後妻・宋美齢とはえらい違いだった。ほとんど公の場に出ることなく家庭で蒋経国を支えた妻で、ファイナは夫婦生活を終えた。二人は三男一女を授かっている。
明るい家庭だったと多くの人々が語っている。蒋経国は親しい友を呼んで自宅で宴会を開くのが好きな男だった。ハメを外すことも多かった。ファイナは嫌な顔ひとつせずに、そんな蒋経国の放埓を許した。
30才の時、蒋経国は秘書・章亜若と男女関係となり、二人の婚外子を設けている。出産後、彼女は唐突に死亡した。二人の子供は成人するまで自分の父が蒋経国なことを知らなかったという。章亜若の死亡については、後に悪い噂が流れた。この事件さえ、ファイナは飲み込んだ。出来ない我慢をすることが、我慢なのかもしれない。ファイナを見ていると、そんな気がしてくる。
父・蒋介石の人生は激風に揉まれたものだった。付随した蒋経国もその激風に晒された。
その激風から一歩離れた場所でファイナとの家庭を紡いだのは蒋経国の意思だったろう。しかしその子らが、けっして真っ直ぐに育たなかったことは、やはり気に留めるべきであろう。否応なく風は・・二人の家庭に"隙間風"であろうと吹き込んでいたのである。
たしかに、蒋経国は心休まる家庭を紡ぐことに腐心した男だったが、一方無数の家庭を破壊した男でもあった。彼の特務機関によって20,000とも云われる人々が無辜の罪に処刑/投獄されたという。彼が破壊した幸せの数は、その20,000という数字の10倍以上だったに違いない。そして、その事実に蒋経国/ファイナが心病まない筈はない。
・・僕は、孫文・蒋介石・蒋経国の系譜を書こうと思ったとき、僕はそれが大きく棘のように刺さったままでいた。他者を無限の不幸へ落し込めた男が自らに安寧を求めて良いのか。神はそれを許すのか。司馬遷云う「天道、是か非か」と・・
そんな僕に、論語の中の孔子は言う。吾黨之直者異於是。吾党の直き者は是に異なり。 僕はそのとき蒋経国の心の中を覗いたような気がした。啼いて旅人を喰らう・・である。
辛酸の少青年時代を行き、生涯熱血漢で統率力があり、情感豊かだった男と、その彼が為した悪鬼の業の間を繋ぐキーワード・・それは「二重人格者」でもなければ「性格破綻者」でもない。鬼子母神だろう・・と思った。
蒋経国は徹底的に自分のモニュメントが残ることを嫌った男だった。
いま台湾で、僕らが出会える縁(よすが)は、父と共に眠る慈湖陵寝/両蒋文化園区と自宅としていた七海寓所/経国七海文化園区。そして馬祖にある経国先生記念館くらいなものである。ヒーローは父だけで充分・・だと思っていたのかもしれない。
しかし彼は、十大建設という巨大な資産を残している。人は、名を遺すより意思や思いを遺すことのほうが大事。王よりも、鋤を発明した者/釣り針を工夫した者のほうが、実は偉大なのだ。僕らは一燈照隅であることを心すべし・・なんだと思う。蒋経国は無言でそれを教えてくれる。