金融封鎖と新円発行#04/日本国官吏の公僕意識は日本型科挙制度に根差している
僕は戦後の子らだ。それも6年も経ったときに生まれた。物心ついた頃は高度成長期の真っただ中にあって、戦争の臭いは微かしか街に残っていなかった。
前々職の時、僕の働いていた会社はシュツットガルトの傍らに有った。この街も僕が知っている景色に戦争の臭いは殆どない。
会社の同僚たちの大半は、僕と同じ戦後あるいは戦中生まれだったが・・もちろん戦中に青年時代を過ごした人々は、上司の中に幾らでもいた。しかし彼らは殆ど往時の話をしなかった。
考えてみると、僕らがまだ20代30代だったころは、軍隊経験者が相当数周囲にいた。新橋神田新宿あたりのガード下で呑んでいると、滔々とその頃の話を話をする酔客もいたし、軍歌を喚く輩もいた。しかしドイツにいた頃には、ついぞそんなオヤジには出くわさなかった。・・どうしてだろう。
それでも一度だけ、泥酔した上司から"Eine blutige Stadt血塗れの街"という言葉が漏れたことが有る。そして"Bullet gefullt mit bosartigkeit悪意の詰まった銃弾"とも・・
それは日本で、だった。仕事で訪日した上司を連れてアフタータイムに東京案内をした夜のことである。彼は、紙と木で出来ている日本の家々が、戦禍を越えて多々残っていることに少なからず驚いたようで、泊っていたホテルのバーで飲んでいるときに、その話に交えながら、燃え尽きたベルリンの話をポツリポツリと始めたのだ。それは彼がドイツ兵士として燃えるベルリンに赴いた時の話だった。
「爆撃は先ず爆弾で屋根を吹き飛ばす。そして後から来た爆撃機が焼夷弾を落とすんだ。そうやって屋根の無くなったビルの中を徹底的に焼き崩したんだ。」上司が言った。
「東京も空襲で一夜で10万人も死ぬ虐殺があった街なんですよ。」僕が云うと
「哀しい話だ。でも自分の街で敵味方に分かれての撃ちあいはなかったことはやはり感謝すべきことだよ。」彼は呂律が些か危なくなりながらも続けた。
銃弾に塗れなかった日本の都市を、彼は愛でた。
「上に立つ者が偉大だったんだ。空爆も市街戦も、同じく死をもたらす厄災だが、生き残った者の心に深く傷を残すのは間違いなく悪意がサーチライトのように剥き出しな銃幕だからな。」と彼は言った。
僕は彼の言葉から、銃撃戦が交差するベルリン市街を鮮々と幻視した。そのとき、おそらく、目の前の泥酔する上司は、僕くらいの年齢の頃だったはずだ。
そう思った時、僕が20代はじめに出会ったサイゴンを唐突に思い出した。焦熱の埃っぽいアジアの臭いに満ちた街を・・
あの街で、ベトナムに自由を!と叫んだベトナムの知識層は、陥落の時、米軍の必死の避難呼びかけを無視して街に残った。そしてそのままコンサンたちの粛清の嵐に巻き込まれていった。
その経緯を思い出した。
もしコンサンたちと米兵の銃撃戦がサイゴンの市内で起きて、彼らもまた銃幕の前に立っていたら・・話は大きく変わっていただろうと僕は常々思っていたのだ。サイゴンは無血で北の手に落ちた。米軍は3万人のベトナム人を街からピストン輸送で助けるだけで、銃火は全く交えなかった。このことを語るものは少ない。
その夜。僕は上司と別れた後、そのまま夜の街を歩いた。泰明の前を通って、みゆき通りを中央通りまで抜けた。そして和光のビルの前に立った。しばらく和光の時計を見つめた。
上司が呟いた"Eine blutige Stadt血塗れの街"そして"Bullet gefullt mit bosartigkeit悪意の詰まった銃弾"が、頭の中から消えなかった。
天皇陛下の御英断が、日本を本土決戦から救った。しかしその陛下の思いは、弾幕に震えたことのない60代70代ジジイたちの台頭を招いた。・・それは至仕方ないことなのかも知れない。
1946年8月8日、憲法制定から外された松本蒸冶は、その憤懣を自分の事務所で来訪者にぶつけていた時、GHQから公職追放令を受け取った。彼は傲然と云った。
「私。松本はそんなものは怖くもなんともない!幾らでも受けてやる!」
彼は弾幕の前でもそう喚いただろうか?一つでも被弾して、なおかつそう哄笑しただろうか。
史記を見よ。司馬遷は宦刑の檻の中で如何ほど震えたか・・彼は対面する恐怖について、史記の中で素直に真っ当に語っている。それが僕が司馬遷を敬愛し信じられる理由だ。
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