日本国名の由来を追って#17/日本国統一となる壬申の乱について
672年、日本国統一となる「壬申の乱」が起きます。覇者となったのは大海人皇子(天武天皇)でした。彼は、既存政権の正統的継承者だった中大兄皇子(天智天皇)の実子・大友皇子(弘文天皇)を打ち倒すのに、3週間ほどしかかかっていません。電撃的な勝利です。・・つまり間違いなく"裏"が有る。「壬申の乱」が始まる前に動いた思惑と勢力が有ったはずです。
しかしその詳細と経緯については、ここで触れません。資料のすべてが天武天皇による王朝が成立した後に、彼らによって書かれたものだからです。客体的な資料は現存しません。考古学的な発掘物もない。傍証できるものがなにもない。なので「3週間で既存政権が斃れ、新しい天皇が誕生した」だけで留めましょう。
以降の天武天皇政権の果たして行った仕事に進みます。
天武天皇政権をひと言でいえば、それは「(天武)天皇主権国家」の確立です。
天智天皇までの近畿YAMATO王朝は、既存豪族利権者の集団でした。無数の利権者のパワーバランスの上に成り立っていた政権でした。それは、北九州王族・中国地方王族・近畿地方王族の鬩ぎ合いの集約として生まれた地価関係ですから、むべなきことだったのでしょう。
天武天皇政権は、このテーブルをひっくり返した。地方豪速の統治者としての「(天武)天皇主権国家」の確立を果たしたのです。
ちなみに、この天皇という言葉も使い始めたのは、天智天皇の頃からのようです。
大阪府南河内郡国分町らある松岡山古墳から「船首王後墓誌銘」という銅版が発掘されていますが、これに「治天下天皇」戊辰年十二月(AD668)とある。AD668は天智天皇即位の年です。以後、朝鮮半島側との外交文書に「王」ではなく「天皇」という言葉が使われるようになっています。
ひとつ、心に留めておくべきは・・彼より以前の征服者に対しても、すべて「天皇」と言う諡名を付けたのは後代だということ。万世一系を強調するデバイスであることを理解しておきましょう。
さて。この「天皇」と言う言葉の語源ですが、道教で使われる「天皇大帝」であることは間違いありません。
道教の「天皇大帝」は天空の中心である北辰(北極星)を指します。八角形で表されることが多い。東西南北とその間の四点を取った八角形です。ちなみに天皇家が儀式に使用する大極殿の"大極"とは北辰のことです。天皇が座す高御座は八角形です。飛鳥時代の天皇の墳墓は八角形をしていた。天皇家の儀式に強く道教の影響が有ることは間違いありません。
ちなみに。道教の熱心な支持者だった唐の高宗(AD649-AD683)は「天皇」を自称していました。死後、皇后・則天武后は高宗に「天皇大帝」の諡名を付けています。
実は、その高宗時代の唐へ、中大兄皇子(天智天皇)は、遣唐使を三回(AD665,667,669)送っています。白村江での衝突による関係悪化を修復するための朝憲でした。このとき遣唐使らは高宗の自称「天皇」を聞いたはずです。そして王に代わる呼び名である「天皇」を中大兄皇子に伝えたに違いない。僕はそう思います。