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星と風と海流の民#09/中島敦のポナペ
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中島敦は父も祖父も教育者だった。1920年11歳の時、彼は父母と共に朝鮮京城へ移った。17歳まで京城で育った。そして帰国、旧制一高から東京帝国大学文学部へ入学、中国文学を専攻している。1933年卒業後、彼は一族の願いを汲み教職員に就いた。そのとき彼は既に結核を病んでいた。気候によって体調が大きく変動した。1931年、橋本タカと結婚。二人は、長男次男を授かっている。結核は次第に悪化した。1941年6月、彼は在籍していた横浜高等女学校を退職し南洋庁内務部地方課に就職した。南洋庁へ移職したは、結核のため教職員生活が不可能と判断したからに違いない。彼は国語教科書編修書記として採用されている。
その年、7月。敦は南洋庁から教科書「編修書記」として南洋群島への赴任を命ぜられた。第二次世界大戦直前である。そしてその7月から1942年3月まで、彼はパラオ諸島/トラック諸島/ポナペ島/クサイ島/マーシャル諸島を廻った。詳細は彼の「南洋日記」に記されている。途中から民俗学者、土方久功が同行しているので「土方久功著作集6」の中でも、この時の話が記録として残っている。土方は親しみを込めて中島敦を「トンちゃん」と呼んでいた。(トンちゃんとの旅・同著作集)
中島敦がポナペへ着いたのはは9月22日だ。前日21日付けで敦は妻タカに手紙を書いている。
「九月二十一日
同封したのは、船中の毎今日(廿一日)の書飯の献立表。日によって、色刷の紙の、形も模様も色も、みんな変る。一日毎に印刷するんだから随分、厄介な話だ。船中のこととて、大して材料もないだらうが、先づ、この程度のものを喰はせる。
二番目のサーロインおしまひの菓子といふのは、大抵、プリンかアイスクリームの類。果物は、梨、リンゴ、ブダウ等、今日はスヰクワで閉口した。
トラック島は昨日の午後出帆。今日は珍しく曇り日。パラオ出帆以來快晴でないのは今日だけだ。しかし海は別に荒れる気色もない。明朝早くポナペ着。ここでは上陸して、二晩陸で泊るつもりだ。この手紙は明朝ポナペで投函することにならう。ポナペでは大分忙しいんだ。短い期間に方々へ行かなければならないんでね。」
ポナペ到着日9月22日の朝、敦は子供たちに絵はがきを送っている。
「九月二十二日
けさポナペ島につきました。
(地きゆうぎを見てごらん。)
ポナペは中々大きな
島で、高い山があります。鳥の
たくさんゐる所で、森には、きれいな
色のインコがとんでゐるさうです。
おとうちゃんは今までしばらく
ふねの中でばかりねてゐたけれど、
こんやはりくの上でねます。
あしたは土人の村へ あそびに行きます」
敦は南洋行中、沢山の絵はがきを子供たちへ出している。この時はポナペのジョガージ村海岸の写真だった。翌日23日には村の様子を描いて送った。
「けふ この村へ行って 土人の
うち で ごちそう になりました。
やしの水 と パンのみ と バナナの
ごちそうです。とても おいしいとおも
ひました。この土人のうちには 犬と
ねこと ぶたと やぎと にはとりと あひるとが
います。コブラ(やしの中にある白い
もの)を投げてやると、みんな、あつ
まつて来ますが、その中で、一ばん
犬が いばつてゐます。犬がいない
時は ぶたが いばるさうです。
犬 も ぶたも いないと、やぎ
が いばるさうです。
ぶた が いばるなんて
ずいぶん をかしいな!」
絵はがきはポナペのナロト村で島民が魚採りしている写真だった。
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(中島敦父から子への南洋だより・集英社)
このときポナペ島には、コロール村とマタラニウム村に尋常小学校が二つずつ、そしてウー村と南岸キチー村に一つずつ有った。彼の「南洋通信・中公文庫」には地方書記の宮野氏に連れられては(コロールの)学校を訪ねたとある。(彼の記述にコロールの名前はない)
23日に書いた妻タカの手紙に、宮野氏が登場する。
「九月二十二日、未明にポナペ着、朝食前に(支庁のランチが来たので)上陸。まだ七時半頃なのに、もう何処でも朝食を作って呉れる所がない。というのは、ここでは四時頃夜が明け、六時には役所学校が始まるのだから、七時半なんて、もう昼に近い (?) 頃なんだ。やっとすしやへ行ってで朝食を済ます。支庁では、地方書記の宮野氏の家に僕を泊らせるように手配しておいたという。そこで宮野氏の家に行って、昼食。後、宮野氏の案内で公学校国民学校を覗いて見る。
ポナペは大きな島だ。山がある。かなり高い (二千尺位の)山が滝も川もあるそうだ。南洋で一番大きな島(といっても、本当は、たかが知れてるが)なんだ。又、南洋で一番雨の多い所、南洋で一番涼しい所だ。街を一廻りして宮野氏宅に帰り、入浴、晩食、これから一週間ぶりで、陸上で寝る所だ。大変親切にして頂いてるんだが、さて、どうお礼をしたものか、宿屋じゃないから、失礼なことも出来ないし)これが今から頭痛の種だ。」
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