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ナダールと19世紀パリ#27/おわりに
少年時代から母とともにナダールの写真館を手伝っていた愛息ポールは成人すると、めきめきと写真師としての腕を挙げた。写真技術が猛烈な勢いで発達した時期でもある。新しい技法を取り入れたポールの写真はしばしば父ナダールを超えた。
しかしポールは殊更それをひけらかすことはしなかった。その意味で母の穏健さと控えめな態度を彼は受け継いでいたのかもしれない。叔父のように我意を通して、溶岩塊のようなナダールに自分からぶつかるようなことはなかった。
それでも衝突はした。ナダールが我慢ならなかったのだ。我が子が己を追い越すことではない。我が子に叶わなくほど老いてしまった自分が腹立だしくてならなかったのだ。
空に舞い地中に潜り、パリとパリの人々を撮り続けたナダールは、常に新しい技法を取り入れてきたが、彼の写真は結局絵画的な静的なものに終始したのである。ダイナミックに動くものを被写体にすろことは稀れだった。ポールのような若々しい動的な写真を撮ることは出来なかった。
たしかにナダールの写真館は父の肖像写真家としての名声の上に成り立っている商売だった。若いポールが写真を撮ったとしても、客はナダールの写真館で撮ってもらったことに満足する。ポールはそのことを良く理解していた。だから父と対立しても大抵彼が沈黙した。ナダールが些細なことで怒り始めると、妻エルネスティンとポールは、ぴたりと貝のように沈黙した。怒りが治まると・・ナダールは、いつも何とも言えない徒労感に沈んだ。
1895年春。ナダールは自分の写真館を飛び出した。きっかけがなんだったか・・記録に残っていない。とにかく75になったナダールは自分の写真館とパリを捨てて旅に出た。カメラは携えていない。だから写真旅行ではない。・・ひとつ判っているのは、若い女性が同行していたことだ。妻エルネスティンと愛息ポールは、何も云わずにパリのナダールの写真館を守った。
その逃避行の途中、ナダールはマルセイユで写真館を開く気になった。地元のスポンサーがついたからである。1897年のことだ。この、ナダールのマルセイユの写真館は、パリの彼の写真館と同じような派手な赤い看板を出し、ある種地元の資産家/知識人のサロン化を目指したものだった。彼自身がカメラマンを務めることはあまりなかった。彼の仕事は来客の接待だったようだ。来訪者と歓談することにナダールは安寧を得た。彼は老いた。
ところが再度ナダールの名前が大きく取り上げられるイベントが起きた。フランス革命100周年を記念して開催された1900年パリ国際大博覧会である。
パリに置いてきたポールが「父・ナダール写真展」を開いたのだ。これが大評判を呼んで、ナダールは市からメダルを授与されることになった。・・考えてみると、これが生涯たった一回の栄誉である。ナダール自身、驚いたに違いない。彼は無冠の、巷の鬼才である。自分でもそう思っていたはずだ。それが"ナダール"という人生なのだ。
1909年1月3日、ナダールはパリにもどった。
病に伏していた妻エルネスティンが危篤だという連絡が入ったからだ。ナダール自身も具合良くなかったが、長旅を押して旧き褥へ還った。7日、妻エルネスティンは 夫の手の中で逝った。号泣し憔悴したナダールはそのまま急速に精彩を失ってしまった。そして彼自身も病床から起き上がれなくなってしまった。1910年3月20日、妻の後を追うように彼も逝った。
写真館はポールが守った。彼が去ったのは1839年9月1日。83才の時だ。彼の墓はパリ/ペール・ラシェーズ墓地にある。
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