コリョサラム#02/アゼルバイジャンのバクーにて#02
スターリンがレーニンの信認を得てロシア共産党の書記長になったのは1922年である。その年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、極東共和国を併合、日本海に至る広大なソ連なる国が出来上がった。トロツキーとの対立しながらも、レーニンの死をきっかけにスターリンは権力掌握のため手段を択ばない王になっていった。・・おそらく彼ほど人を殺した男はないだろう。その数は100万人を下らないと言われている。
スターリンは何を見ていたのか?僕は、オノレをイワン雷帝の再来としたかったのではないか?そう思えてならない。強引な領土拡大と政敵粛清の嵐を見つめると、いつもイワン雷帝の亡霊を見つめるような気がするのだ。
スターリンは、晩年のエイゼンシュタインに『イワン雷帝』の制作を指示している。しかし出来上がってきた映画には不快しか示さなかった。エイゼンシュタインの描く『イワン雷帝』は神経症的なやがては暴君になっていくしかない男だったからだ。いつものように社会主義礼賛映画なのだが、彼のイワン雷帝を見つめる視線は醒めて切っている。人間としてのイワン雷帝を真摯に描いているのだ。
この映画は三部作の予定だったが、スターリンの逆鱗に触れ、2作目は作られなかった。作られたのはエイゼンシュタイン死後、別の監督によって・・だった。
このエイゼンシュタインの『イワン雷帝』には、彼に纏わる最も有名なエピソードが描かれていない。
スターリンを二重写しした男『イワン雷帝』を知るために、ここでアンリ・トロワイヤの書く『イワン雷帝』を引用したい。
『宮廷の一室で嫁のエレーナに出会った彼は、すでにお腹も目立ちはじめた彼女が、しきたり通りに三枚の重ね着をせずに、軽いドレス一枚しか着ていないのを見咎めた。公妃たるものがこのようにしどけない服装をすることは許せぬと言って、彼は手を振り上げ、嫁をひどく打ち叩いたために、彼女は流産してしまった。宮殿に帰ったツァレーヴィチ(ツァーリの子、つまり皇太子)は、父の部屋に駆け込んで、やり場のない怒りをぶつけた。ごく短い期間に、二度にわたって君主を声高にののしったのだ。・・・イヴァンは狂気のような怒りの発作にわれを忘れ、椅子から飛びあがると、鉄鉤つきの棍棒をふりあげ、肩といわず頭といわず、めったやたらに息子を殴りつけた。・・・ツァレーヴィチは、こめかみを割られて横たわっている。イヴァンはふと手を休め、血まみれの棍棒をもったまま、虚脱したようにそこに立ちすくんだ。まるで他の人間がやったことだとでもいうように、それからがばと息子の体にとりついて、うつろな眼を宙にさまよわせている鉛色のひげ面を接吻でおおい、深い傷口をつたって頭からどくどくと流れ出す血をとめようと、空しく試みた。ツァーリは仰天し、絶望し、うなり声を上げた。“なんてことだ、息子を殺しちまった!息子を殺しちまった!”』
この話を知っているスターリンが、エイゼンシュタインにメガホンを持たせるはずもないエピソードだ。