小説日本国憲法 3-15/東京裁判に向けて立
同日3月6日、米内光政が第一生命会館GHQを訪ねた。ボナー・フェラーズ准将の要請だった。米内は最後の海軍大臣である。海軍省は前年11月に解散しているので、彼は無官だった。
ふらっと付き添う者もなくGHQを訪ねた米内に玄関で対応した警備兵は戸惑った。あまりにも普通の人にしか見えなかったからだ。連絡すると、ボナー・フェラーズ自身が玄関まで迎えに出た。
「米内大将!わざわざご足労を申し訳ございません。」ボナー・フェラースは今にも抱きつきそうなほどの歓待の意を示した。
ボナー・フェラーズは知っていた。米内が海軍相時代、通勤に市電を使っていたことを。大柄な米内は目立つ存在なので屡車内で乗客にサインを求められたという。米内は心安くサインをしていた。
「大将ではありません。今は一介の老人です。」米内は笑いながら応えた。
ボナー・フェラーズに付き添われて、彼の執務室に入ると応接椅子に着くなり、米内は言った。
「私は、あなたに感謝しなければなりません。必ず戦犯として巣鴨送りになると覚悟していたのですが、あなたのご尽力によって今こうやって此処にいられる。」
「いえ。あなたのような逸材を失うことは、日本にとっても米国にとっても大きな損害です。私はそれを皆に伝えただけです。」フェラーズが言った。
米内は、戦争末期、海相として太平洋戦争終結の道を探り続けていた。5月の会議で陸軍大臣・阿南惟幾と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出す」とまで言い切っている。ちなみに阿南は8月15日終戦の日、自決の寸前に「米内を斬れ」と部下へ指令している。
11月30日の海軍省解散と共に、米内は戦犯指定されることを覚悟していた。そのために身辺整理などもしていた。そこへ11月の始めである。ボナー・フェラーズが訪ねた。直接対応したのは、秘書の麻生孝雄だった。そのときにボナー・フェラーズは言った。
「米内大将の人柄業績について、我々は完全掌握しています。彼が、命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、そして終戦に向かう情勢における閣下の言動は全て把握しております。米内大将が戦犯指定されることは絶対にありません。我々は彼をレスペクトしております。」そう断言して、麻生を驚かせていた。
その後、フェラーズは何回も米内と会談を重ねている。
そのボナー・フェラーズの言葉通り、米内光政は戦犯指定されなかった。
目の前に端然と座る老人に、ボナー・フェラーズはゆっくりと言った。
「実はお願いがあって、本日はご来庁いただきました。」
「おねがい?この老人にですか?」
「実は、東條を説得していただきたいのです。」
「説得?」
「はい。私は何としても陛下をお守りしたい。陛下が極東裁判に召喚されることを防ぎたいのです。裁判官の殆どが日本国について強い恨みを持つ国の代弁者です。如何な彼らでも陛下の責任について、口に出せないようにしたいのです。」ボナー・フェラーズがきっぱりと言った。
「そのために、東條に”陛下は反対していた。しかし私は戦争を遂行つもりでいた”と証言してもらいたいのです。あなたに東條を説得していただきたいのです。」
米内は、しっかりとボナー・フェラーズを見つめていた。小さく頷いた。 「あなたのお心は、道さんからも伺っています。」道さんとは、河内道のことだ。道は専修大の校長だった。米内は、自分を訪ねてきたボナー・フェラーズという佐官に興味を持ったに違いない。木内はフェラーズが小泉八雲の研究家であることを知っていた。
「わかりました。陛下をお守りするためなら・・私がメッセンジャーになりましょう。」米内が言った。
「よろしくお願いします。陛下は・・私が、絶対にお守りします。戦犯扱いはさせません。」ボナー・フェラーズはきっぱりと言った。
たしかに東京裁判へ向けての、ボナー・フェラーズの画策は用意周到で緻密なものだった。岡本嗣郎は、その著「終戦のエンペラー」で「フェラーズの工作は、政治の表と裏の両舞台で水ももらさぬ周到さで展開された。その強引さ、露骨さ、生々しさ、そして隠密ぶりはフェラーズの知られざる一面をのぞかせている。彼は温和な文人肌の理知的人間であったと同時に、怜悧で非情で有能な現実的政治家でもあった」と書いている。
筆者もボナー・フェラーズの行動には、はっきりとOSS(現CIA)の血筋を感じてならない。彼なくてアレほど見事に、昭和天皇の戦争責任について触れないまま裁判が進むことは有り得なかったのではないか?そう思えてならない。
米内は帰宅すると。すぐさま巣鴨プリズンの東條に面会を申し入れた。しかし彼自身が行くわけにはいかない。弁護士が伝えた。そのとき東條は「そんなことは心配ない」と言ったという。
後日、米内が東京裁判に証人として1946年(昭和21年)3月・5月の2度出廷したとき「(私は)当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であったため、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。その一方、満州事変・支那事変・日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二・板垣征四郎・武藤章、文官では松岡洋右などの名前の挙げ、彼らの争責任を追及している。しかし、東條英機の責任については一言も発言しなかった