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RAA特殊慰安施設協会その後
たまにはRAA話を。
サンフランシスコ条約締結を目前にRAAは大きく業態を変えていた。1949年5月に「日本観光企業株式会社」という別会社を立てたのだ。役員はほとんどRAAの連中が兼務し資産は全てこちらへ移動した。RAAは銀座通り7丁目に居を構えていた。観光会館ビルと言う名前である。
米軍大幅撤収に向けて、いち早くRAAは半官半民米兵向け売春企業から見事不動産業ビル貸し業に転身したわけである。
1964年「銀座ハリウッド」というキャバレーが此処に入った。それも1976年に取り壊されて、いまの姿がある。博品館だ。
戦後直後、銀座で米兵相手のキャバレーを、松坂屋の地下、千疋屋で経営していたRAAの本社ビルが、同じようにキャバレーへ様変わりしたのは、なんとも因縁話のようだ。
大蔵主計官だった池田隼人から「一億円(融資)は安い」言われたRAAの商売である。ま、実際にRAAが受け取った資金は3000万円だったのだが、その3000万円で、彼らは目敏く早々と焦土の東京の不動産を大量に買いあさっていた。見事としか言いようがない。
RAA=売春所=さもしい商いの奴ら。。というイメージがあるが、実は違う。戦後の高度成長と共に、RAAは、名を変え姿を変えて、とてつもない価値と化した不動産を保有する超優良企業になっていたのである。
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