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夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩7-1-2/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

https://www.youtube.com/watch?v=6Rcdd8kw-3k

「ところで・・人々が各々の生産物を持って集まるのは、キリスト教国家では修道院/教会の囲壁にだった」
「え?何??大聖堂の前でハンバーガー食べてるからする話題なの?」
「いや、なんでパリへ戻る前にトロアに寄ったか?という話さ」
「あぁそう。そもそもから始まるわけね、そのそもそも、ハンバーガーが食べ終わるまでに終わりそ?」
「そうした集まりが自然発生的に出来るのは、修道院/教会に人が集まるときだった。祭日Feriaeだよ。だから市場はFairって呼ばれていたんだ。Fairはそのままラテン語のForumに繋がる」
「ああなるほどね。日本語の市場はどうなの?」
「話を散らかすな。市はもちろん華国の言葉だ。人々が集まって商いをする場所を日本で「市」と称したのは律令時代からだ。易傳/繫辭下について素養もった人々が既にその時にはいたということだ。
古代中国では、商いは勝手に道端で出来なかった。そのための場所を施政者が用意して、そこで行ったんだ。それについて記されているのが『日中為市、致天下之民、聚天下之財、交易而退、各得其』だ」
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%93%E5%82%B3/%E7%B9%AB%E8%BE%AD%E4%B8%8B
モスクもそうだよ。モスクの下には商店が並ぶ。店は一定の家賃をモスクに払って安全を確保してもらうんだ」
「イスタンブルの旧市街で見たバザールね」
「そうだ。市は宗教の庇護下で安定し、繁栄してきたんだよ。その延長線上に、この街で開かれた『シャンパーニュの大市Les grandes Foires de Champagne』があったんだ」
「へえ、大きな市場があったの?いまは?寄ってみたいけど」
「いまは・・ない」
「あら」
「ここで市場が始まったのは古い。やっぱりセーヌ川が街の真ん中を走っているからかもしれないな。水路はとても重要なロジスティックルートだから。それとマルス川、モーゼル川も近い。クロアは交易の場所としてとても有利な場所なんだ。」
「え~この街にセーヌ川があるの?」
「後で行ってみよう。ずっと下流にパリがある」
「史料を見ると始まりは西暦400年代らしい」
「まだローマがこの辺りを支配していた頃ね。ローマ街道があるの?」
「ん。ある。その資料はクレルモンフェランの司教シドワーヌ・アポリネールがトロワの司教サン・ルーに宛てた文書なんだよ」
「あ、やっぱり教会の壁際でやってたわけね」
「そのとおりだ。この町がクローヴィスのものになった時から、それが次第に大きくなった。ローマによる陸路の確保があって、セーヌ/マルス/モーゼルという水路を備えていたからな。フランダースとイタリアなど欧州各地から商人が集まるようになったんだよ。そして1000年代に入ると、教会からシャンパーニュ伯ブロワ伯チボー4世の管理下に移った。500年ほど経って、マーケットが城壁に軒並べる大きさではなくなったからだ」
「教会のものじゃなくなったの?」
「いや教会は隠然と力を持っていた。でもチボー公が入ることで政治的軍事的な安定が生まれたんだ。これは大きい」
「チボー公って・・テタンジェへ行ったときにメゾンが見せてくれたプロモーションビデオの人?」
「そうだ。あの人だ。伝説では彼が十字軍遠征のときに、シャンパニューへシャルドネを持ち込んだと言われている。
たしかにシャブリのシャルドネも、彼の係累が教会経由でもちこんだものだ。
シャンパニュー公は聡明な男だった。彼は、マーケットへ参与する商人を許可制にしたんだ。それで商材の品質と恒久的な提供が出来るようにした。その許可制と法整備でプロヴァンとトロワのマーケットは急速に伸びたんだ。
とくにフランドル伯とシャンパニュー公の連携が、その高伸に拍車をかけた。フランドルの商人たちが常設するようになったんだ」
「フランドルの商人?」
「フランドルは、今のベルギーとフランス北部にまたがる辺りさ。羊毛・毛織物の主産地だ。これをフランドルの商人たちは地中海の城塞都市や英国やスペインの王室に売ってた。これがそのままオランダ商人になり大航海時代に繋がってくんだが・・その話は今しない」
「はいはい。その市場の中心地がこのトロワだったの?」
「そうだ。他所でも開かれた。全部含めて『シャンパーニュの大市Les grandes Foires de Champagne』と呼ばれるんだが、主たるマーケットは、トロワ(年2回)、ニー・シュル・マルヌ(年1回)、プロヴァン(年2回)、バール・シュル・オーブ(年1回)で、定期的に順番で開催されたんだよ。フェルナン・ブローデルがこれを「繰時計じかけのシステム」と呼んでる」
「あ~あなたが御贔屓にしてる人ね」
「公平性を取るためにチボー公は基準になる重さを決めた。「マルク・ド・トロワ」だ。1147年に決められた。
それとチボー公は取引用の通貨「プロヴィノワ・デニエ」を発行したんだ。交易はチボー公の通貨で行われたんだ。
「それをチボー公一人がやったことなの?」
「ん」



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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました