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夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩3-3-2/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つつ戦争について考える

https://www.youtube.com/watch?v=Fd6e3PxgNSo

「フランク族の長・クロ-ヴィスに、中央フランスでの勢力拡大のやり方として『侵攻ではなく聖戦にする』というアイデアを誰が吹き込んだのか・・判らない。僕はその原型のアイデアを出したのは聖レミかではないかと思う。ガリアの地で、キリスト教がローマやゲルマンの侵攻とは関係なく、広く深く力を持っていることを熟知していたのは神父たちただったからね。『あなたが神の僕となり、既に世に広く伝わって、遍く民に幸せを持たらせている信仰を守ればいい。さすればすべての民はあなたに与するだろう』とね・・」
「まるで、見てきたような話ね。Netfilixのドラマみたい」
「東からの異族侵攻は、キリスト教が数百年かけて広げたローマからの技術/システムを破壊するものだったからな、神の僕として立ち上り、異教徒と戦ってくれる人々がいれば・・・民は間違いなく全面協力する。勢力拡大の方法について苦慮していたクローヴィスのハートを射止めたのはこの言葉だろう・・とね」
「なるほどねぇ」
「クローヴィスの言動を見ると、彼に熱心な信仰心が有ったとは思えない。彼の嫁さんは熱心だった。彼は・・もっとクローヴィスはドラスティク/功利的だったんだよ。聖レミはいまのサン・ニケーズ教会で、そんな彼にプレゼンテーションをしている。5世紀半ばだ。この時、聖レミが言葉だけではなく、どんなオファーをだしたか・・僕はそれが知りたいね。おそらく兵站の協力援助かもしれないな」
「兵隊さん3000人に食料1年分・・どこにでも毎日おとどけしますとか?」
「ん。まあ、そんな感じだ。クローヴィスの洗礼は496年12月25日に行われたと言われている。実はもう少し遅いころだった・・という説もある。当時の歴史家グレゴワール・ド・トゥールによると、同日3,000人のフランク軍兵士たちも洗礼を受けて同じく『神の僕』になったそうだ。
クローヴィスの圧倒的快進撃はこの時からだよ。そしてね、面白いことにクローヴィスの聖戦は従来の"西への侵攻"ではなかった。東へ・・他ゲルマン部族の平定になった、逆進したんだよ。このクローヴィスの快進撃のおかげでランスは聖都市として大躍進を為した。北部アウストラシア地区Austrasiaの中でメスMetzよりも大きな都市へ発展したんだよ」
「アウストラシア?」
「いまのフランス東部、ドイツ西部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダあたりだ。クローヴィス死後、彼が制覇した地区はゲルマン族の伝統に従って子供たちに三区分された。その一つが東北部アウストラシア王国(中心都市:メッス)だ。中西部ネウストリア王国(中心都市:パリ)、東部ブルグンディア王国(中心都市:オルレアン)と呼ばれた。フランク王国の原型になる三地域だ。‥結局のところ、フランク族はキリスト教徒になったがローマ式統制にはならなかった。王が死ねば王国は否応なく子らに分断される。統一は維持されない習慣だった。そして今度は子らの間その部下の間に近親憎悪が起きる。永遠に続く分断集合のスパイラルだ。ローマ的統合にはならなかったんだ」
「結局は支配の道具としてキリスト教を利用しただけだったのねぇ」
「ん。その後、欧州世界にずっと続く王族貴族間近親憎悪パターンは、この稚拙な統制ヒエラルキーのせいなんだ。これは市民の経済力が大きく台頭し、王族貴族が倒れるまでそのままだったんだよ」
「ヨーロッパ王族の近親憎悪・嫉妬・謀略の本質は、クローヴィスがせっかく欧州世界を統一しながらローマ的な共和主義/エリートによる支配主義にならなかったためなのね」
「もしクローヴィスがキリスト教と共にローマの共和主義を取り入れていたら・・以降のヨーロッパ史は大きく変わっていたと僕は思うな。
しかし・・フランク族には、そのローマ的共和主義をささえるだけのインテリジェント・パーソンがいなかった」
「ずいぶん冷たく突き放すのね」
「知識人はね、幼少期から時間をかけて育てないと出来上がらないんだ。これを"教育"というんだ。その環境と素養がないと、国家を運営できるほどの知識人は生まれない。当たり前な・単純な理由だ。ローマはそれが出来た。田舎から立ち上がった勇猛な蛮族にはできなかった。だからクローヴィス死後、すぐさまアウストラシア王国・ネウストリア王国・ブルグンディア王国の間に近親憎悪と謀略が始まった・・というわけさ」


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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました