悠久のローヌ河を見つめて19/フィロキセラ
ローヌ地方の1800年代は、躍進に向けての激動の年だった。
1700年代後半のフランス革命が多くのワイン畑の持ち主の出自を塗り替え、与信ある人々が生産者になることで、リヨンなどの投資家から大きな資本の投入が容易になった。おかげで革命動乱後は急速にローヌ地区の葡萄畑は充実し、生産量も質も安定へ向かった。
それを支えたのが運河の整備だった訳だが、それに重ねて蒸気機関車の登場が鉄路を生み出した。
最初のパリからプロヴァンスへ向かう鉄路は、ローヌ川沿いにフランスの南北を繋ぐものである。鉄路による搬送はコスト計算を一新させる。そのおかげでローヌワインは、普通にパリでも飲まれるようになって行った。生産量はこれに合わせて倍増した。つまりローヌ川流域のワインは、投資するに値するビジネスへ急速な進化を遂げたのである。競って大手の金融機関がローヌ流域の葡萄畑/醸造所/ロジスティックに貸付けを行った。
この"負債"が、後にローヌを救った。
1963年。アヴィニオンの南西リラックLiracに葡萄畑を持っていたM・ジョセフ・アントワーヌ・ボーティM.Joseph Antoine Bortyという男が、新しい商品を開発しようと考えて、東海岸からアメリカ原種の葡萄の木を輸入した。ランブルカ種である。アメリカ原種の葡萄は丈夫で実が撓わに付く。
もともと歴史の交差点で有るローヌ地方は、様々な葡萄種が植えられている地区である。ボーティが自分の畑にアメリカ原種の葡萄を植えてみようと思ったことは、実はそれほど奇異な思い付きではない。・・もし。彼が、やらなくても何れ誰かがやったに違いない。
ボーティの畑に、輸入されたランブルスカ種は見事に根付いた。しかし、翌年から何故か彼の葡萄畑の木が次々と枯れてしまう。アメリカから持ち込んだ品種は元気なのだが、他の木は全て枯れてしまうのだ。如何に手を施しても全ての葡萄の木は枯死した。そして枯死の波紋は、ボーディの畑を中心に同心円上に地域全体へ広がり、ついには5年ほどでフランス全土に広がってしまった。フランス全土の葡萄の木がすべて枯れてしまったのだ。まさに悪夢。そしてその悪夢は、イタリアにもスペインにも周辺各国にも広がり、全世界に広がるには30年ほどしか掛からなかった。
原因は、北米東部に原生しているフィロキセラという、葡萄の木に付くアブラムシである。このアブラムシが爆発的に繁殖し全世界を覆ったのだ。
全ての葡萄農家が壊滅的危機に陥った。
対処法として、根をアメリカ原種の葡萄の木を使い、土から上の部分をヨーロッパ種にするという方法が取られるのだが、それにしても零細農家が多い地方は、そんな植え替えのための資金繰りが付く訳もなく、多くが廃業へ向かうしかなかったのである。そしてそれに次いで戦火である。多くの若者が戦場に狩り出され、働き手を失った農家は全く再生不能な所まで追いやられてしまった。
元来、葡萄は単位面積当たりの事業効率が、他作物より高い。したがってある程度資本投下が出来る農家は挙って自分の所有農地を葡萄畑にした。しかし、そのお宝の葡萄の木が全て枯れてしまったのだ。現在、パリ周辺地域に葡萄畑が殆どない理由は、これである。そして、たとえ再投資して葡萄を育てワインを作ったとしても、早期に資本投下され回復したラングドックやローヌのワインから運ばれる安価なワインには、価格的にとても太刀打ちできない。なので小さな農家は何れも葡萄畑の再開を諦めるしかなかったのである。
こうして安定と繁栄の20世紀へ、ローヌワインは向かっていく。