悠久のローヌ河を見つめて11/パリの貴族たちは海路で運ばれたワインを飲んでいた
ブルゴーニュ領主フィリップ勇胆王はアラスに邸宅を持っていた。此処の酒保がワインリストを残している。1300年代後半の記録だ。その中に「1クーのグルナッシュと1クーのマルヴォワジー」の表記がある。ブルゴーニュの王もグルナッシュを嗜んでいたのだ。
ブルゴーニュで産するピノノワールとは全く違う、甘味漂うグルナッシュは「もうひとつのワインのあり方」として、勇胆王だけではなく当時の西ヨーロッパ貴族たちから高い評価を得ていた。この事が幾つかの記録から窺い知れる。
例えば「ワインと水の諍い」という14世紀に書かれた詩歌には、世界の偉大なワインのひとつとしてグルナッシュの名前が挙げられている。貴族たちは、賓客を招いた宴には必ず東方のワイン「ギリシャ・ミュスカデ・キプロス」と共に、イベリア半島のワイン「グルナッシュ・ガナシェル」を並べたのだ。
ところが、このフランス貴族たちに絶賛されたグルナッシュだが、ローヌ川流域のものではない。スペインから海ルートを辿って遥々持ち込まれたものである。持ち込んだのはヴェネチアの商人たちだ。ヴェネチアは1200年代よりクレタ島を支配していた。彼らは、同地でミュスカデ・マルヴォワージなどの甘味ワインを醸造し、これを海ルートで地中海から大西洋に入りバルト海を通って、ライン川を遡り北方最大の交易都市アウグスタ・ラウリカAugusta Raurica(バーゼル)へ運んでいたのである。
アウグスタ・ラウリカ(バーゼル)は、ランスと共にローマ時代から続く北ヨーロッパで最も大きな市場である。とくにライン川に面した同地は、船を利用して様々な交易物が遠隔地から持ち込まれていた。国際色豊かな市場だったのだ。なので、こうした珍奇なものを求める大陸内部の商人たちが数多く集まった。ヴェネチァの商人たちは彼らにリキュール類/甘味ワインを売ったのだ。そしてこの、彼らが売るワインの中にグルナッシュが有った。グルナッシュは、途中寄港地だったスペイン/カディスCádizで購ったものだった。
・・もしかすると。彼らの中には、バーゼルではなくセーヌ川を遡上して直接パリへワインを運んだ者もいたかもしれない。
パリの貴族たちは輸入ワインとしてグルナッシュを呑んだ。彼らが、ローヌ川流域のワインを飲むようになるのは、セーヌ川上流とローヌ川を結ぶロジスティック・ルートが出来上ってからである。
当時、陸路での搬送は、ワイン流通にとって最も大きな障壁だった。そして、それより遥かに大きな障壁だったのが"通行税"の存在である。
ブルゴーニュ/ロワール流域各領主は、自分たちの"パリ"と云うマーケットがローヌ/ラングドックルションのワインで荒らされるのを嫌って、多大な通行税を賭けていたのだ。そのため、同地のワインがパリへ運ばれることは殆どなかったのである。
少しローヌ川を真ん中にして俯瞰してみよう。
ローヌ川ソーヌ川分岐点に在る城塞都市リヨン。同地はローマ街道が交差する街でも有るので大いに栄えた。此処はフランク王国の領地だ。しかしすぐ北には、フランドル地区まで繋がる広大なブルゴーニュ公国が控えている。経済圏は、南北に分断されていた。たしかにリヨンでの交易は2国間を跨いで行われていたが、高い関税に耐えられない商品は、農作物/ワインなどは、国境を越えることがなかった。これが、ローヌ川流域で作られたワインがリヨンより北へ流れて行かなかった理由だ。
では。だれがローヌワインを購ったのか?その話を次回したい。