深川佐賀町貸し蔵散歩#04
史料を漁っていると、千代田城の家康さんが召し上がっていた魚介類は、深川の漁師が納めていたという記録に出会った。
このとき、ふと思ったのは佃島である。佃島の漁師は摂津から家康の後を追って江戸港へ越してきた漁師たちだ。摂津佃島の漁師たちは、苦難の時代の家康に海運で仕えた人々である。家康を慕って遥々関東までやってきた彼らは地元の小魚を採っている連中より遥かに技術的に勝っていた。そのため、隅田川沿岸の漁撈利権は彼らが独占した・・という記録が残っている。
深川の漁師たちが家康さんに魚を納めていたならば・・やはり同じく関西から越してきた連中ではないか??そう思った。実は、この8人も摂津の人ではないか?
そこでこの8人の漁師たちについて、少し突っ込んで調べてみることにした。
前述した『寛永録』の冒頭部分にこうある。
「猟師町之儀は、寛永六巳年、汐除堤之外干潟之処、町場二取立申度旨、治郎兵衛・藤右衛門・新兵衛理左衛・彦左衛門・助右衛門・助十郎・弥兵衛、八人之者、半十郎 〔伊奈忠治〕様江奉願、雅楽頭(酒井忠世・大炊頭〔土井利勝〕 様江被為仰上候処、徳院様江言上被為在、町場新開致候処、漁師町と惣名相唱、小訳町名自分名前を以相唱、御菜御肴三拾六度差上」
此処には8人の出身地についての記述はない。
前述したが『寛永録』は相川町(現永代)の開発をした相川新兵衛が家伝として残したものだ。
ここに、この8人による町場取立願いは代官の伊奈忠治、老中の酒井忠世・土井利勝を経て、当時既に将軍職を退いた家康にまで届いたとある。つまり徳川中枢部を駆け上ったのである。そのことからも僕は、尋常ならざるものを感じてしまう。
さらに資料を追うと、熊井町名主の理左衛門と相川町名主の新兵衛以外の6名はどうやら酒井忠世の臣下だったようだ。酒井忠世は三河国西尾の出身で織豊期から徳川家康に仕えていた武将である。江戸期には譜代大名として、江戸の町の拡張に参与している。おそらく小名木川→隅田川への塩のルートを確立させたとき、その隅田川周辺の葦原の干拓と開墾を、自分の手下の者に指示したのはないか? だとすると全員まちがいなく酒井忠世と共に江戸入りした移植者だったろう。
史料には「元録八年五月、苗字之町銘二改、清住町安房之清済之緑、佐賀之湊の緑を以唱、富吉は元福嶋之生国と之由 申伝候」とある。富吉町の町名は開発人の福嶋助十郎の出身地が富吉であったことに由来するとある。富吉という地名は下野国・因幡国・日向国などにある。
・・やはり、徳川家直轄の配下による開発だった・・ということだ。