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堀留日本橋まぼろし散歩#15/外堀・呉服橋御門外#04

「日本橋川は、家康さんの江戸入り直後に掘られた川なんだよ。道三堀と一緒だ」
「道三掘って、葛西の方から塩を運ぶために作られた運河でしょ?」と嫁さんが言った。おやおや、ヒトの話をそれなりにきいていねんだ・・と内心感心した。
「うんそうだ。日本橋川は、江戸城築城のための資材を運ぶために掘られた川だ。両岸に鎌倉河岸/裏河岸/西河岸/魚河岸/四日市河岸/末広河岸/兜河岸/鎧河岸/茅場河岸/北新堀河岸、/南新堀河岸があった。江戸湊から隅田川を通って夫々の河岸に荷揚げされてた。一番上流にかかっていた一石橋からは、常磐橋/呉服橋/鍛冶橋/日本橋/江戸橋/銭瓶橋/道三橋が一望できたそうだ。だから一石橋は八つ見橋と呼ばれてたんだ」
「河岸って・・魚河岸のことじゃないの?」
「"かし"は杭(かし)だ。船を止める縄をかける杭(くい)のことだよ。万葉集1190番『舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも』詠み人知らずだ。可志振立而とある」
「わ!出た!万葉集」嫁さんが、お化けでも出たように言った。
「4313番『青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか』とある。可之布流保刀尓だよ。こちらは"可之"と書くが1190番は"可志"だ。いづれも杭(かし)のことだ。これから荷物を荷下ろしするところを河岸(かしと言うようになったんだろうな。江戸時代に越谷吾山が編纂した方言辞典『物類称呼諸国方言』にも『河岸 江戸にて、かしといふ』とあるから間違いないだろう」

「よくまあ、つらつらと色々出てくるわね」
「越谷吾山は曲亭馬琴の弟子だよ。言語学者杉本つとむが『方言に憑かれた男 越谷吾山』という本を書いてる。ムチャクチャ面白い人だよ、越谷吾山は」

「次から次に色々名前が出てきて、アタマがくらくらするわ」
「・・すいません」
「ということは・・河岸は、魚河岸だけじゃなくて色々な河岸が有ったという訳ね」
「そうです」
「それが、日本橋川にはいっぱい並んでいたという訳ね」
「おっしゃる通りです。おくさま」

そんなことを話ながら、日本橋を渡った。
「元禄期までには、この川筋の河岸は完成していた。そしてその機能はそのまま明治にも引き継がれたんだ。大正にもね。その間に日本橋は架け替えられ京橋も木造から石橋に変わった。江戸橋も石橋になっている。そして明治後期には鉄橋になってるんだ。
実はね、江戸時代に正式名称が無かった。幕府は興味なかったんだろうな。正式名称になるのは明治10年ころからなんだよ。川の名前も日本橋川/外濠/楓川/京橋川と名付けられたのもそのときなんだ。明治も終わりころになると、揺籃の中で大企業になっていったところが此処に本社を置くようになるんだ。
所謂日本橋区な。ここが日本の中心地として確立していくんだ.」

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました