小説日本国憲法 3-14/日本国憲法要綱成立
3月5日、断続的に送られてくる「憲法草案」を検討する閣議は、その日午前9時から断続的に開かれた。全ての書類が届いたのは午後4時すぎ。GHQ側の作業まで手伝うはめになった佐藤達夫が官邸に戻ったのは4時半過ぎ。疲労困憊していた。ところが官邸に戻ると、すぐまさ入江に2階の書記官長室へ来て欲しいと言われた。行くとそこで”政府案”として形を整えるべく入江次長を中心に、井出/宮内/小田部らが作業をしていた。否応もなく、その作業に佐藤は巻き込まれた。結局着替えることもなく、佐藤は2晩、徹夜することになってしまった。GHQでの不眠不休に続いて、今度は6時間あまり書記官長室に閉じ込められたのである。
佐藤が書記官長室に軟禁されたころ、幣原はいなかった。松本蒸治を伴って参内していたのだ。
その日、陛下はお風邪を召していた。そのため陛下の寝室である文庫の居間で拝謁した。
陛下は両者が持参した「憲法草案」を一読すると、すぐさま「宜しいかと思います」と言った。そのお言葉に逡巡はなかった。
松本は、このときの事を1954年7月7日に開かれた自民党憲法調査会の席で、以下のように語っている。
「このときの内奏は、畢竟するに敗北しましたということのご報告になりました。此方で多少抵抗したためによくなったところもありますが、そうことはあまり申し上げませんでした。」「当時のことは今でも眼の中にあるのであります。」
その日の閣議は夜9時過ぎまで続いた。その閣議で幣原は以下のように言った。
「このような憲法草案を受諾することはきわめて重大な責任である。おそらく子々孫々にいたるまで責任は続くであろう。この案を発表すれば一部の者は喝采するであろうが、また一部の者は沈黙守るであろう。しかし心中深くわれわれの態度に対しては憤激するに違いない。だが今日の場合、大局の上からこのほかに行くべき路はない。」
閣議は悄然とした。涙する者もいた。
松本は、対案を制作したらどうか?と再三繰り返した。それを総理からマッカーサーに出してもらうのはどうか?と・・しかし幣原は首を横にしか振らなかった。
「これ以上、遅れれば事態は大変なことになります。これ以上の遅延は無理です。」幣原は涙ぐんでいた。 なぜ無理なのか。その話はしなかった。涙する幣原を見つめながら、松本は不満そうな顔をして沈黙した。
松本はこう書いている。
「終ニ字句等些末ノ点ヲ暫ク措キ、一応、先方ノ対策ニ服従スル」と。
GHQから、同日中に記者発表をするようにという旨、電話が入った。しかし幣原は、まだ尚一部語句の整合性を取らなければならない。なので明日夕方にしたいと回答した。GHQはこれを承認した。
筆者は、ホイットニーという弁護士の忍耐力に驚く。極東委員会第二回目会議は3月7日と決定している。その席で日本国憲法についての委員会が作られるのは必至だった。
それ次第でGHQマッカーサーの命運は大きく動く。それでもホイットニーは幣原の「明日に」という言葉へ諾を出したのだ。
ホイットニーは5日午後に出来上がった草案をマッカーサーへ夕方の会談で提出している。おそらく電話は、その会談の後だったのではないか?
日本側と電話で話した後、ホイットニーはワシントンへ出来上がった旨の電信をいれた。そして現物は、ハッシー中佐が6日に東京を出発しワシントンへ米時間3月6日早朝に届けると報告した。・・同じものを日本政府が自己案としてメディアに載せるのが3月6日夜となると、ワシントンへそれが伝わるのは6日朝。その日のうちに極東委員会の連中にハッシーが届けた書類が渡されるとしても、余裕は2日しかない。これが何らかの理由で2日以上を遅れればタイムアウトだ。タイトロープだ。ホイットニーはその張り詰める緊張にジッと耐えていたのである。
おそらくだが、吉田あるいは白洲を通して、こうした話は漸う幣原の耳に入っていたのではないか。だからこそ、松本の「対案をだせば良い」という発言に対して「これ以上、遅れれば事態は大変なことになります。これ以上の遅延は無理です。」という言葉が出たのではないか。筆者はそう感じる。「今日の場合、大局の上からこのほかに行くべき路はない。」という幣原の言葉にも、その裏に「GHQが失墜すれば、日本国は間違いなく無間の混乱に陥る」という確信を感じる。
3月6日朝、閣議は続けられた相変わらず「受け入れるか・受け入れないか」の話は飛び交ったが、全体としては「致し方なし」という幣原総理の姿勢を受け入れるものになっていた。
そして午前10時ごろ、ハッシー中佐が英文の憲法草案を携えて首相官邸を訪ねた。対応したのは楢橋書記官長だった。ハッシーは、これら書類を極東委員会委員の11名、米政府に1部、そして日本政府に一部提出する。公式なものであるという承認を求めた。楢橋が全てにサインをすると、すぐさま去った。楢橋は閣議中の幣原の小耳にその旨、伝えた。幣原は小さく頷いた。間に合ったな・・そう思った。陛下はこれで守られる。
私は最も大事な仕事を完遂した・・そう思った。
閣議決定は反対なく成され、その日の夕方5時に記者発表となった。
その会見で強調されたのは「これは政府案であること」「条文ではなく要綱である」ことだった。「具体的な憲法は国会にて審議されるものとする」ということだった。
幣原は以下のような談話を出した。
「畏くも天皇陛下におられましては」「非常なるご決断を以って、現行憲法に根本的改正を加え」「民主的平和国家建設の基礎を定めんことを明示せられたのであります。」「茲に政府は、連合国総司令官との緊密なる連絡の下に、憲法改正草案の要綱を発表する次第であります。」
その折に発表された勅語は以下のものである。
「・・国民ノ創意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スル主義ニ則リ、憲法ニ根本的改正加ヘ、以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ。政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ対シ、必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」
なんという決意が込められたお言葉であろう!
これに継いで、すぐさまマッカーサーが声明を出した。
「余は日本の天皇ならびに政府によって作られた、新しく且つ開明された憲法が、日本国民に世の全面的承認の下に提示されたことに、深い満足を持つものである。」
これもまた、なんという見事な連係プレーであろう。
こうして維新以来連々と続いた薩長軍閥による日本支配の根は、唐突ゆえに何の阻害もなく徹底的に叩き潰されたのである。無論、完全ではなかった。地下に潜り一部はGHQの走狗となり、一部は朝鮮戦争の銃後を守るために組成された警察予備隊・・後の自衛隊へ継がれて行く。その根はしぶとく残るのだが、少なくとも現在に至るまでの70余年、再度彼らが台頭することはなかった。これは大いに評価すべきだろう。
昭和天皇は勝った。
・・その6日の朝。48時間以上続いた徹夜で意識朦朧になっていた佐藤達夫は、漸く2階の書記官長室から開放され、帰路に着いた。佐藤の家は阿佐ヶ谷に有った。阿佐ヶ谷は東京大空襲で大半の民家は燃え墜ちていた。佐藤の家も例外ではない。その焼け跡にトタンを重ねてバラック小屋を作り、家族5人で暮らしていたのだ。すぐ傍に焼け残った土蔵が有った。佐藤は、着ていたものを全て脱いで2階に上がった。穿きっ放しだったゴム長靴は異様な臭いだった。佐藤は、そのまま風呂にも入らず倒れるように眠り込んだ。
そのとき、家人に背広のポケットの中に入れてあったジェリービーンズを渡した。紙に包まれてクシャクシャになっていた。それは第一生命会館で昼食に出されたデザートだった。佐藤はそれをナフキンで包み、当時小学生だった娘のために持ち帰ったのだ。