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石油の話#21/月と砂漠とラクダの民#02
砂漠に滲み出る「大地の血」を独占していた欧米の石油資本は、一体どれほどの利益を得ていたのでしょうか?
例えば、サウジアラビアの原油FOB価格は1バレルあたり1.70~1.90ドルでした。しかし、石油利権を握る王族に支払われていたのは、わずか21セント程度に過ぎません。当初、王族たちは訳もわからずに舞い込んだ利権に満足していました。しかし、時間の経過とともに彼らの視線は変わり、イランの動乱をきっかけに「我々はもっと受け取るべきだ」という意識を持つようになったのです。
皮肉なことに、彼ら王族が砂漠の地で「我々こそが正当な王である」と名乗ることができたのは、英米の武力によって石油利権が守られていたからに他なりません。しかし、偶然与えられた利権に甘やかされた者は、しばしば「その利権をどのように手に入れたのか」を忘れてしまうものです。そして「もっと寄越せ!」と要求するようになるのです。この「もっともっと!」という声を黙らせるために、英米は新たな譲歩策を提示しました。
1950年、ベネズエラに続き、中東でも利権折半方式が導入されました。サウジアラビアの王族の取り分は、約4倍に引き上げられました。まさに「ゴネ得」、濡れ手に粟の飴玉でした。
この動きに刺激され、1951年、イランのムハンマド・モサデグ(Muhammad Mossadegh)はアングロ・イラニアン石油会社の国有化を断行しました。モサデグを支えていたのは、国内の親共産勢力でした。その背後では、ソビエトの傀儡が蠢いていたのです。
しかし、ガージャール朝の縁戚にあたる名家の出身であるハンマド・モサデグは、果たして親共産主義的な立場に傾倒したのでしょうか?
共産主義とは、新たな形の王朝支配に他なりません。
「人民のため」というスローガンを掲げながらも、実際には内部の権力闘争を勝ち抜いた者が国家を統治する体制です。
なぜ、モサデグはこの思想に魅了されたのでしょうか? それは、彼を支えていた選民意識と権力欲こそが、実は「共産主義化」の本質と通じるものであったからです。もしかすると、彼は「自分こそが新王朝の皇帝になれる」と考えたのかもしれません。
こうした誘惑こそが、第二次世界大戦後に共産主義が世界を席巻した要因の一つだったのです。
一方、米国は自国の影響下で共産主義国家が台頭することを嫌いました。一党独裁の共産化は自由競争を阻害するからです。
当時の米国大統領はアイゼンハワーでした。彼は中東や東南アジアでの「共産主義化」を強く警戒していました。彼にとって、イランは「対ソ北防衛線設置構想」の要衝であり、その喉元に親共産主義勢力を置くわけにはいかなかったのです。
そこで彼は英国と共に膨大な資金を密かに投下し、反共主義のイラン軍内部にクーデターを促しました。
こうして1953年、ムハンマド・モサデグによる、いわゆる「モサデグ民主政権」はクーデターによって崩壊しパフレヴィー2世による専制政治が復活しました。米国は、これを利用し、イランの政治的・経済的・軍事的な独立を阻止しつつ、「民族の自立と尊厳」を掲げながらも、実際には「米国主導の世界秩序」を推し進めたのです。
そして、国際石油資本である「セブン・シスターズ」との合弁会社が、堂々とイランの油田の40%を管理することになっていきました。
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