東京散歩・本郷小石川#12/武家台頭前夜
武家を産み出した最も大きな要因は騎馬による戦闘形式だと云ってもいい。
騎射が戦闘法である。鐙によって姿勢を安定化し弓を射つ。武家とは、馬を能く操る戦闘集団のことだと言ってもいい。
この「馬を操つる」という技術だが・・遊牧民の中でしか生まれない。熟達もない。そうした人々がどんな経緯でどう日本に入ってきたかは、いまのところよく判らない。・・昔、江上先生の話には胸をときめかせたが・・
馬そのものは弥生期(漠然としてる)ではないかと言われている。競走馬理化学研究所とネブラスカ大学のチームが、日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較したところ、モンゴル種が対馬を経由して輸入され全国に広がった事がわかった。まず対州馬と野間馬が分岐し、ここから木曽馬や北海道和種馬の北上するグループと、御﨑馬やトカラ馬など南下するグループに分かれ、南下グループは南西諸島経由で与那国馬まで至った。・・同じ時期、牛も日本へ伝わっている。系統的としては北方系の亜種タウロス Bos tauros taurosで、インド系のゼブ牛の血統ではない。現在のところ確実な(伊皿子古墳は別にして)出土は奈良県御所市の南郷遺跡で古墳時代後期のものである。鎌倉時代に描かれた「国牛十図」には牛の産地や、産地別が事細かに載っている。
牛馬とも律令時代から、中央政府によって管理され生産されていた。牧という。牧は近畿中央政府の管理下にある郷全てに有った。唐風を倣い駅伝制を取ったからである。傳馬を維持する必要があった。それも有って使役にしか使わない牛は、牛に比べて管理数が圧倒的に少なかった。ちなみに唐の厩牧令には、水駅もあり、唐の厩牧令を殆ど丸のまま模倣した和製の厩牧令にもそれがある。しかし実際には水利を利用したロジスティックが確保できるほどの大型船も操船術もなかったので、延喜式を見ても、陸駅は400以上あるのに対して、水駅は出羽の最上川沿いに3ヵ所有るだけである。ある程度長距離の輸送と戦闘は、大きく馬に頼っていたことが判る。
おそらくだが、戦具として馬が強く意識されたのは、663年白村江の戦い以降だろう。唐突な朝鮮半島への派兵を実行した近畿中央政府は、騎馬を能くする新羅/唐連合軍に返り討ちに遭った。その敗北が騎馬戦の重要性を教えたに違いない。騎馬の機動力と殺傷力の前に斉明天皇/中大兄皇子軍は惨敗したのである。この戦いから騎馬力の重要性を学んだ近畿中央政府は、兵部省の中に馬寮が設けた。これが平安時代に拡大充実されて、左馬寮と右馬寮になっていく。律令時代、全国に設置された「牧」は、こうした背景で確立され荘園へと、形を変えていくのである。