【星と風と海流の民#45/ユリグ川のチョモロ遺跡】
途中から国道4号へと名前を換える海岸道路をRamon氏のクルマは南へ走った。目的のAdventure River Cruise(8QQ6+VHR, 4, Talo'fo'fo:phone+16716461710)までは30kmほど。30分くらいの道だ。
クルマはメリッソ村Malessoを抜けてイナラハン村Inalåhanを通過した。途中から道はEast Chalan Canton Tasiとなる。マロジョジ村Malojlojを過ぎてしばらく走ると、タロフォフォ村Talo'fo'foの手前にAratama Maru湾が見えた。
「ここの浜辺はBlack Sand Beachと呼ばれています」Ramon氏が言った。
「砂鉄ですか?」
「でしょうか?よく知りませんが、確かに鈍緑色です」というとRamon氏は助手席に座った息子の顔を見た。
「玄武岩や溶岩片だと聞いております。グアムはフィリピン海プレート上にあります。その火山活動で出来た島ですが、4千4万年も前のことです。いまは全てがサンゴ礁で覆われて姿を消していますが、島の南側にはその時代の痕跡が残っております。幾つかの奇岩が黒砂のビーチがそうです」
「Fo'naとポンタンPontanと岩も?」と嫁さんが言った。
「はい。古い火山活動の残りですね」
「ハワイ島にあるプナルウビーチPunalu'u Beachもそうだ。アイスランドのレイニスファラReynisfjaraもな。
ビーチの崖沿い柱状節理Basalt Columnsが並んでいる。石で作られたパイプオルガンみたいでね、あたかも人が作ったような幻想的な風景だ」
「ふうん、行ったことないわ」
「もし、よろしければ、帰りにでも寄りましょうか?。いまはもうツアーの時間が迫っておりますので」Tamon氏が言った。
「Adventure River Cruiseは、この先のタロフォロ川Talo'fo'fo river河口にございます」
Ramon氏のクルマはタロフォロ川を渡るとすぐに左へ入る細い道に入った。
Adventure River Cruiseの桟橋はすぐ横にあった。
桟橋の向こうに大雑把な作りのクルーザーが停泊していた。事前に買っておいたチケットを渡して僕らは、このクルーザに乗った。乗客は少なかった。しばらくすると船が走り出した。
タロフォロ川を少し昇ると、川は二つに分かれた。船は左側のユリグ川Ylig Riverに入った。入ったところから左右は密林になった。
「大きな川ね」縁に寄りかかりながら嫁さんが言った。
「ユリグ川はグアムで一番長い川だよ。西のアプラ高原からさっきの海岸まで11km以上あるそうだ」
「全部、ジャングルの中?」
「ん。途中に横井正一さんが隠れて住んでいたという洞窟(8PFQ+R5G,Inalåhan)があるよ」
「あら!横井さんの隠れてたとこって、この辺りだったの?」
「ん。ホントにジャングルだからな。それとユリグ川があるから飲料水には困らない。野ブタもいるしな」
「野ブタ!!」
「ん。後にチョモロと呼ばれるようになった星と風と海流の民は、3000年から4000年ほど前、カヌーに乗せて家禽類を連れてこの島にきた。豚や鶏や犬だ。その一部が野生に戻ってジャングルで暮らしている。きっと重要な蛋白源だったに違いない。おそらくグアムや北マリアナ諸島に渡った人々は、台湾かフィリピンからの人々だろう。とくにフィリピン北部とチョモロ文化は近しいんだ。言語も近い」
「ふうん。大昔からグアムはフィリピンの人が来る場所だったのね」
「主食であるタロイモはフィリピンか来た。実はグアムや北マリアナ諸島に点在している巨石文化はフィリピン北部にもある」
「あらま」
「ルソン島にるバナウエ棚田BATAD RICE TERRACESと云うのがある。こいつは石を積み上げて作られた棚田だ。非常に高度に出来ていて2000年以上使われている。他にも巨石で作られた遺跡が幾つもある」
「行ったことないわ」
「不便な所だよ。行って帰って来るだけでも何日もかかる」
「ふうん。でも・・行ったの」
「ん」
リバークルーズの船は、途中のチョモロの村に辿り着いた。子供たちが走り回っている。村は意外に整備されていて観光資源でそれなりに潤っているな・・という感じだった。幾つかのデモンストレーションの後、少し離れたラッテストーンが並ぶ広場へ案内された。ガイド付きである。
https://www.valleyofthelatte.com/product/adventure-river-cruise-morning-tour-general-admission/
「この石柱って、家の床柱なんでしょ?」写真を撮りながら嫁さんが言った。
「ん。そうだと言われてる」
「だったら、なぜこんなジャングルの中に村を作ったのかしら?もっと海岸沿いで良いんじゃないの?」
「いや、あれだけ幅広いユリグ川Ylig Riverが有るからな。カヌーで移動するには問題なかったんだろうな。淡水もあるし、グアムの海岸線は何処も狭いからな。焼き畑しても大きな耕地にはならない。それに海岸線の傍は襲われやすい。距離的にはこのくらい内地へ入り込んだ方が良かったんだろう。フィリピンのイフガオやコルディリェラ地方も熱帯雨林の中だ。たしかに彼らは航海術を能くした人々だが、ジャングルの中に棲むことを厭わなかったにちがいないと思うな。
どこでも海佐知毘古と山佐知毘古は兄弟なんだ」
『故火照の命者海佐知毘古に為て而鰭廣物鰭狹物取る火遠理の命者山佐知毘古に為て而毛麤物毛柔物取る爾に火遠理の命其の兄火照の命に謂す各佐知を相易へ用るを欲る三度乞へ雖不許ず然るに遂に纔に得相易へき』
・・火照命は漁撈の神だ。海幸彦と言われていた。火遠理命は狩猟の神だ・山幸彦と言われていた。あるとき火遠理命が、兄火照命に言った『それぞれの幸を交換して使おう』と。しかし、火照命が三たび願っても火遠理命は許されなかった。しかし最後は少しだけ交換をした。・・そんな話だ。
同じくミクロネシア・メラネシア・ポリネシアへ広がった『星と風と海流の民』は半農半漁の民だ。もし農耕が生産の主体だったら、こんな話は生まれなかったろうな」
「全部は、一つの所から・・太平洋全体に広がった・・というわけね」
「今の潮州あたりが源流だろう。その海岸域に海岸域に『星と風と海流の民』は暮らしていた。しかし感慨文化を産み出した華夏族に押されて、彼らは南へ、そしてそのまま海へ逃げたんだ。『星と風と海流の民』が海へ拡散していく時期と華夏族の台頭・拡散は見事に一致している」
「その海へ広がった人たちの文化・・なわけね」
「ん。3000年前にな。同じように地中海東岸でも海への拡散は起きた」
「レバント地方?」
「ああ。しかしこれほど広範囲ではなかった。フェニキア人は、交易の民だったからな。だからいつも交易という箍が嵌められていたんだよ。ラピタの人たちも交易は下が、はるかに希薄で軽やかだった。彼らの拡散は、まさに定住する場所を求めての移動だったからな。そこに大きな違いがある」
「その濃密な交易という箍が、西洋文明を産み出したのね」
「その通りだ。たしかにオーストロネシア人は世界最大の拡散を行った人々だが、文字は産み出さなかった。大陸では精妙な土器を作り上げたが、島へ拡散すると、それも失った。静かな冷めた文明・・とレヴィストロースならいうかもしれないな」
「あ。出た。レヴィストロース」
「京都で開かれた国際東方学者会議International Congress of Orで講演会が有った。1977年だ」
https://www.msz.co.jp/book/detail/07430/
「何度も聞いたわ。その話」
「・・すいません。でももし、あの講演に出会わなかったら、僕は歴史を追ったりはしなかったろうな。あの会議にはフェルナン・ブローデルを来てた。la longue duréeだ。二人の碩学に僕は頭をバットで叩かれたんだ」
「今もそのまま頭が振動したままなのね」
「はい」