葛西城東まぼろし散歩#23/行徳塩田#01
「まだ江戸湊が、だだっ広い湿原だったころ。下総は中央政府と関東豪族を繋ぐロジスティックのハブとして栄えていた。西暦700年ころからだ。騎馬をツールとしてサムライという階級を産み出していった時代の一角を担っていた」
「源氏頼朝の派兵?」
「うん。それだ。鎌倉へ渡って中央政権を作った頼朝の部下には、下総から武蔵国/常陸国から渡ったサムライが多かった。時代の趨勢で北条氏に政権が移り、下総は彼の管理下に入った。・・その頃はまだ江戸は水っ溜まりだ。太田道灌が水利を要塞として千代田城を作ったが。それほど立派なもんじゃなかった。文明の中心は、いまの松戸/市川あたりだった。・・しかし、900年ほどかけて下総は衰退した」
「どうして?」
「産業に伸びる余地がなかったからだ。HUBとしての機能に有用性が無くなって行けば、衰退していくしかない。陸地に馬牧が残り、海岸部は小魚を獲る漁師たちの地になっていたんだ。それでもひとつ、おおきな特徴があった」
「なに?」
「塩田だよ。行徳に有った塩田は有用な産業として残ったんだ」
「下総に馬牧場が有ったのもびっくりだけど・・行徳に塩田?次から次に知らない話が出てくるわ。行徳といったらディズニーランドでしょ?」
「たしかに。そうだ。ディズニーランドが誘致されるまでは寂しい港町だったよ」
「そこに塩田があったの?」
「ああ、有った」
「いまも?」
「いまは、ない。明治の半ばまでだ。塩はね、海外から(主に台湾から)大量に安価に入るようになってね、国内産業としては、急速に凋落したんだ。だから僕が知っている行徳は、すでにうら寂れた漁村になっていた。でも、江戸時代/明治の初めまでは大いに栄えたんだよ。
実は行徳塩田って、上総国五井で行なわれた製塩を受け継いだものだったんだ」
「五井って、千葉の?」
「ん。市原は上総の国府が置かれたところだ。今の市原市を横断している養老川周辺や五井海岸で製塩が行われていた。行徳の製塩は、この技術を典範したと言われれている。もしかすると五井/養老川からの移住者かもしれないね。確証はない。行徳で塩焼きを営んだ村は、本行徳村、欠真間村、湊村の三つだった」
「東京湾に面して、大きな塩田が二つもあったの?」
「そうだ。塩田は天候・気候の影響をまともに受ける。それなンで内房なんだろうな。たしかに製塩は大きな利益をもたらすが、バクチ的な要素が強い商売だったんだ。だから、個人の商いというよりお国の保護政策がないと維持できないビジネスなんだよ。行徳は千葉氏の所領だった。それが北条氏に移った。・・そしてそれを家康が没収して、行徳塩田は徳川のものになったんだ。"御手浜"と云って家康は行徳の塩業を保護したんだよ。江戸の町を作り上げるのに"塩"の確保は必須だったからね」