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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩5-06/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#05・番外03


「ローマは立農国家だった。・・比してガリアやゲルマンは半農半牧だった。
北東欧から西欧州へ流れた人々は、ほとんどが牧畜文化の人々だ。それでも半定住型の人々は半農半牧だった。しかしそれがローマのように高機能な灌漑設備に至るところはない。
ローマを産み出したラテン人は違った。彼らはアッシリアやメソポタミアの文化から継承された灌漑技術と治水技術をもって流れてきたんだ。おそらくだが・・その技術を生かせる地を求めて流浪した人々なのかもしれない」
「つまりラテン人はゲルマン人とはちがった民族だった・・ということ?」
「うん。おそらくな・立農式文明は、1万年くらい前に南西アジアの肥沃な三日月地帯で始まった。これは間違いない。それが数千年単位でユーラシア西部全体へ広がっていくんだが・・」
「ゆっくりとゆっくりと文明が広がり始めるわけね」
「そこで問題なのは・・地元にいた先住民が、何らかの方法で立農技術を学んだのか?それとも肥沃な三日月地帯から渡って来た人々が植民して立農文明が広がったか?だ」
「・・今まで色々あなたがした話からかんがえると・・やっぱり植民でしょ?」
「ん。そうだ。ここでもタカマガハラから来た人々が先住民を統べる。外圧でクニが替わるわけだよ」
「外圧ねぇ。たしかに外圧だわねぇ」
「最近のDNA/ゲノム研究で、ヨーロッパ本土では、アナトリアからの初期農民が拡散することで、農業が営まれるようになったことが分かった。・・地元先住民の上に覆いかぶさったんだ。Dr.AmmermanとDr.Cavalli‐Sforzaが言うところのデミック拡散モデルDDM/Demic Diffusion Modelだ」

https://www.researchgate.net/profile/Hui-Li-2/publication/200033709_Genetic_evidence_supports_demic_diffusion_of_Han_culture/links/540c4d8b0cf2f2b29a3708a2/Genetic-evidence-supports-demic-diffusion-of-Han-culture.pdf

「黒海を挟んで、大きく文化は牧畜と農耕に分かれた・・と見ていいかもしれない。
ラテン人は黒海の南側からバルカン半島の尾根を抜けてイタリア半島へ流れてきた人々だ。農耕系の血を継いだ人々だっだんだよ。
そして彼らは、イタリア半島北側ポー川周辺ポー平原で、自分たちの「祝福された地」を見出した。それがローマ・・だよ」
「ローマ帝国ねぇ」
「灌漑技術を背景にすると、農業は爆発的な生産力を産み出す。牧畜とは桁違いだ。
一粒の麦は、翌年100~200粒になる。翌年は1万~4万粒になる。翌々年は100万から400万粒になる。それが灌漑技術を駆使した立農の凄さだ。牧畜にそんな可能性はない。
その爆発的な生産力を支えるために周辺の技術も格段に進化する。木製から青銅製に替わるのも、そのためだ」
「あ~ようやく青銅の話になったわね。内心はらはらしたわ。ブルゴーニュへ来てローマ帝国興亡史を聞くのかと思っちゃった」
「ごめん、話がとっ散らかるのはいつものことだけど‥つまり立農国家にとって青銅を使った器具は必須だったわけだ」
「それをローマはキプロス島から手に入れたのね」
「キプロスはギリシャ人とフェニキア人が拮抗する島だった。彼らが銅鉱石を採掘していた。
紀元前200年くらいからそこにローマが絡んだ。ローマで使用された銅は大半がキプロス産だったんだ。
そして紀元前58年に小カトーが攻め込んで、キプロスはキュプラス属州としてローマのものになったんだよ」
「ふうん・・錫は?」
「当初は、ギリシャ人と同じくアナトリア半島の山間部そして黒海貿易で手に入れていた。バルカン半島でも手に入れていた。そして同時にアルプスの北側レマン湖側からも手に入れていたんだ」
「そのアルプスルートが、ローヌ川を利用することで爆発的に大きくなったのね。わ~長い、ソモソモ話しだわ。肥沃な三日月地帯からローマの誕生までの話。びっくりだわ」
「すいません・・」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました