蒋経国という生き方#04/台湾島へ
「1948年12月より国民党台湾党部主任に任命された蒋経国の仕事は、国民軍/蒋介石の資産を台湾等へ移し替える事だった。これは速やかに尚且つ秘密裏に行わなければならなかった。」
「どうして?」
「国民政府は、決して一枚岩じゃなかったからだよ。共産党側へ寝返るヤツもいたし、勝敗が見えないなら見えるまで態度を保留しておこうという連中もいた。もともと国民政府は亡くなった孫文の後を継ぐことで蒋介石のものになったという経緯があったからね。面白くない者も少なからずいたわけだ。とくに資産家たちは、蒋介石が負ければ今度は毛沢東の顔色を伺わなければならないからな。土地に縛られている人々を自らと一蓮托生にさせるのは至難なもンさ。いきおい付いてくるのは資産のない輩ばかり・・になる。」
「蒋経国は大変な仕事をすることになったのね。」
「ん。でもそれが父子の絆を深めることにもなった。蒋経国は蒋介石の裏の顔として父と表裏一体になったんだ。それもあって蒋経国は台湾への資金移動を終えると国民党台湾党部主任を辞任した。そしてもっと闇な仕事に回った。国民党台湾党部主任は陳誠が任命されたんだ。」
「陳誠?また新しい名前ね。」
「陳誠は蒋介石の腹心の部下だ。後に蒋経国と蒋介石の後席を競う人物でもある。
陳誠は国民党台湾党部主任として台湾の全権を握ると、蒋介石がやってくるまでの露払いとして精力的に人心掌握を試みた。前に話した228事件があったばかりだからね。台湾人の国民軍への心象は最悪だったんだ。」
「犬去って豚が来る・・ね。」
「そうだ。日本軍の敗走に狂喜し国民軍を熱烈歓迎した台湾人たちは、いざ彼らによる統治が始まってみると、その腐敗ぶりに驚いたんだ。小うるさい犬が去った後、貪るだけの豚が来た・・というわけだ。そしてその不満が228事件へ繋がって行く。国民党台湾党部主任として台湾の管理を任された陳誠が最初にやらなければいけなかったのは、国民政府から乖離した台湾人の心を取り戻すことだった。
彼は1949年1月に就任した3ヵ月後の4月、大型の農地改革を宣言した。小作料を一律37.5パーセントに引き下げたんだ。(三七五減租)この減租によって国民党は農民たちから圧倒的な支持を得た。
この減租によって国民政府の税収は激減するのだが、陳誠/蒋介石は断行した。実はそれほど危ない状態に台湾島は有ったということだ。かなりの員数の共産党員が台湾島内に入り込んでいたしね、このままではクーデターの可能性ありと踏んだんだろうな。 もちろん、そんな大型の減租が可能だったのは、蒋経国が秘密裏に持ち込んだ資金のおかげだ。」
同時に陳誠は5月19日、台湾全土に戒厳令を布告する。共産党勢力を封殺するためだ。この戒厳令は1987年7月まで38年間、継続した。世界史にもない稀な長い戒厳令となった。
「もうひとつ大きな経済政策は、デノミを行ったことだ。日本軍敗走後、台湾はインフレに陥っていたが、陳誠が国民党台湾党部主任になった頃は、手の付けられないほどハイパーインフレになっていた。これを解決すべく陳誠は、6月15日に新台湾ドル(4万旧台湾元=1新台湾ドル)を発行し、新札への交換を指令すると共に、 旧台湾元の使用停止そして大陸側元券との交換も停止を宣言したんだ。そして人々に貯金を促すべく高金利政策を行った。定期預金金利の4倍引き上げたんだ。この政策は台湾人から大いに支持された。戒厳令という負の命令の目眩しにもなった。それと蒋介石来島の露払いな。その意味は大きかった。」
「最後の砦としての台湾・・ね」
「ん。相当周到にそして熟考されているね。決して行き当たりばったりのアナグマ戦術ではなかったということだ。」
「アナグマ?」
「将棋の手の一つ。絶対に王将が取られない手のこと。」
「ふうん・・」