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本所新古細工#05/吾妻鏡から里見八犬伝へ

深川氏が開墾した辺りは一面水ったまりだったが、ヤマトタケルの后の櫛か上がった辺りには、充分ではないが地面っぱたは有ったのかもしれない。といっても海面数メートルくらいだったらしい。それでも頼朝が布陣(隅田宿)出来るほどの広さはあったんだろうなと思う。「吾妻鏡」のその辺のことは勇壮な話になっているので実態はよくわからない。同書では、隅田宿に集結した兵27,000とある。しかし「義経記」ではこれが一挙に89,000になってしまう。空間的な容量を考えても、おそらく「吾妻鏡」の数字の半分くらいと云うのが妥当な所だろうな。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma00-00mokuji.html
それに、この辺りは江戸太郎重長の持ち物で、もしそれほど大兵だったら、頼朝は一気に江戸氏平定にむかった・・と僕は思うのだ。

江戸太郎重長は平氏だった。もともと源氏は関東の産なんだが、往時関東の支配者は大半が平氏だった。頼朝はその地で反乱軍を再組成したというわけだ。それでも安房から隅田宿に進軍する頃にはその兵は27,000になっていたと「吾妻鏡」は書く。即ち我に正義あり、という話しだ。
ところで頼朝が布陣した隅田宿辺りは葛西氏・葛西清重の持ち物だった。彼も平氏だ。しかし機を見る敏があり、葛西氏は頼朝に適従した。

さて、その隅田宿だが、どこいらへんを指すのか、いまいち文献が少なくてわからない。おそらくだが堤通にある隅田神社辺りではないかと言われている。さっそく行ってみた。
境内にあった看板には以下のようなことが書いてあった。
『隅田宿跡
当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
隅田宿は治承4年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(吾妻鏡)、元来は江戸氏など中世武士団の 軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだ という十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(夫木和歌抄)。
また、室町時代成立の「義経記」には、「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家 伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二十五年三月
墨田区教育委員会』
なるほど・・差し障りなく「このあたりが隅田宿である」としている。「墨田の渡り両所」として栄えていたから、きっと此処が頼朝が終結したところだったろうという程度の話しだ。・・実は、僕は「もしここに頼朝の陣幕があったとしたら」べつの理由だろうと考えている。その話は後述するね。

もちろんいまの隅田神社に頼朝との縁(よすが)を感じるものは何もない。大きなマンションに隣接した社殿から往時を偲ぶのは至難だ。それでも「吾妻鏡」を携えながら、鋭い冬の西風が舞う境内に佇んでいると、打倒平家に邁進する頼朝の熱病に感化されて、各地を転々とした上総国/上総氏、下総国/千葉氏、安房/安西氏のことを考えてしまう。最終的に頼朝は勝利した。共に戦った人々は夫々領地を得て幕府の御家人となった。しかし国家経営的には、この武士なる者による支配は巧くいかなかった。頼朝死後は様々な権力抗争が内部に巻き起こり、最終的には新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡(1333)してしまうのだ。かくして日本国の経営権は再度京へ移ってしまう。
室町幕府の台頭である。・・室町幕府は関東10か国を統治するために鎌倉府を設置した。そして鎌倉公方(鎌倉将軍)なる要職が生れた。
ここからは滝沢馬琴の「里見八犬伝」の世界になっていく。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました