猫田による猫田のための、留守。
連絡手段が携帯電話になって、
個人に依存する時代となった今、
留守という概念はこぼれ落ちていった。
私の中からは。
もし何かの因果によって、
私が宅配業者のスタッフになればあるいは、
戻ってくることもあるかもしれないが。
今のところ未定なので。
マンション形式の住居にいるのだから、
隣人はまあそこそこたくさんいるはずだが、
引っ越しのご挨拶をしなかったなら
隣の人の顔すら知ることもない。
隣人を知らないのだから、
その隣人が留守かどうかなんて
なおさら知るよしもない。
隣人に限らず知り合いについてもそう。
個人を知っていればそれで十分で、
家に訪ねるとしてもそこには個人がいる。
わざわざ個人のいない家に行くのは、
空き巣かストーカーかサプライズの仕掛人くらい。
ひとの家が留守であることに、
関心を持つことがなくなった。
いや言い換えるならば、
留守という現象に立ち会うよりも早く、
ひとに会えるようになった。
だとすると、
留守という概念が消え去っていくのは、
当然であり良いことなのではなかろうか。
他人の留守には無頓着なくらいがちょうどよい。
今考えたばかりの私の持論だ。