吹奏楽コンクール課題曲のとある作曲者について
はじめに断っておくが、私は今回コンクールで採用された課題曲や作曲者本人の考え、思想を完全に否定するわけではない。部分部分で疑問に思う点があるためそれに対する考えを述べるだけであることをご了承願いたい。
吹奏楽コンクールとは
今までの吹奏楽コンクールの課題
今回の作曲者の行動と疑問点
今後の吹奏楽コンクールの在り方とは
吹奏楽コンクールとは
まず、吹奏楽コンクールとは全日本吹奏楽連盟が主催する日本で最大の吹奏楽コンクールである。そのなかで最も規模の大きい組み分けとなるA組では、毎年吹奏楽連盟が提示する課題曲と各団体が選ぶ自由曲を指定された時間内で演奏するため課題曲は全国の小学校から社会人まで数多くの人が演奏する機会となる。このようなことは世界的にも珍しく一曲に対する多様な解釈や演奏模様を楽しむことができる特異な慣例といえる。
とりわけ中高生に関しては、全国大会への出場が大きな目標となり日々の楽しみを制限してまでも目指す舞台であり、わかりやすく言えば甲子園のようなものである。笑いあり涙ありの練習で、かけがえのない仲間や先生による指導などまさに青春の日々ということができる。
しかしながらこの二年間は新型コロナウイルス感染症の影響により、練習時間が制限されたり、大会自体への出場が難しくなったりと悔しい思いをした学生も多かったことだろう。失われた二年間を取り戻すかのように学生たちは今年より意気込んでいることも想像に難くない。
今までの吹奏楽コンクールの課題
上記のように数多くの人々が演奏する機会は珍しく、ある種日本吹奏楽界においてはビジネスチャンスとなっている面がある。各楽譜出版社、作曲者はこのコンクールに合わせて演奏時間、難易度を合わせた曲を多く出版しているのだ。需要に対して供給するということは自由主義経済的には間違いとは言いきれないが、音楽という芸術の分野に関してはそのような制約に合わせて作られるものがはたして音楽的に優れているのだろうかという疑問は残る。自由な創作空間や調性、時間といったものに縛られず、演奏者の技量も考慮せずただ単に音楽性を求めることが吹奏楽の発展に寄与するのではないだろうか。
とはいえ、前衛的な音楽だけでは新規の聴衆を取り入れることは難しく、シンプルであることが音楽的に優れていないということではない。また作曲家も仕事であるため、生きていくためには多くの人に受け入れられ人気にある必要があるのだ。そのため確かにある程度条件を絞ったり、いわゆる売れ線の曲を作ることは非常に納得がいく。しかしながらここで言いたいことはコンクールという舞台が大きすぎるあまりに、作曲家や楽譜出版社が商業的な関わりをすることで音楽性をないがしろにしていないかということは常に注意が必要であろう。
続いて自由曲のカットの問題がある。コンクールには制限時間があり、課題曲の改変は規定違反であるため、時間の調整として自由曲に部分部分をカットするといった問題があるのだ。組曲などを抜粋するなどならばまだしも、繰り返しや似たようなフレーズをカットすることで時間を短縮し制限時間内に収めるのである。作曲者の中にはこの事情を考慮してあらかじめカットのモデルを提示している場合もある。しかしながらこれも作曲者が泣く泣くとっている措置であり、音楽を審査する吹奏楽コンクールにとって音楽を愚弄するという悲しい結果となっている。しかしながらこれにも上記の商業主義的な矛盾を抱えており、コンクールで演奏されないことにはほかの曲も認知されない、しかしながら音楽性を捨てることも難しいという葛藤を作曲者は抱えているのである。コンクールを運営する観点から制限時間を撤廃するということは難しいため、カットの禁止、もしくは自由曲に対しても時間制限を設けることで曲自体を傷つけるという行為に終止符を打つべきである。
続いてコンクール至上主義の現状について著していく。コンクールの根本を覆すこととなってしまうが、音楽というものは本来点数のつけられるものではない。スポーツのように正確なルールもなく、ボードゲームのように条件も定められていないからだ。芸術、とりわけ音楽に関しては音という不安定なものを扱っておりその一瞬にしか存在しないため余計に審査という行為が難しいのである。また、演奏の背景にある文脈を理解するということも聴衆の聞き方に変化を与える。どんなに超絶技巧のプロ奏者が演奏しているよりも、楽器を初めて一か月に満たない我が子が必死に演奏している様に感動を覚えるということもあるだろう。また、審査形式も複数の審査員による主観であり、まったくもって客観的に公正公平な判断ができるわけではない。前評判によるバイアスがかかることもあるだろうし、前後の学校との比較で不安定な評価となることもあるだろう。ここまでコンクール批判をした私であるがコンクールなしでは日本の吹奏楽界はここまで発展していなかったのではないだろうかと私は考える。評価や形式は不安定であるものの、点数をつけられるという緊張感や具体的に金賞や銀賞といった評価がつけられるという目標は音楽性や技術力の向上に役立つことは間違いない。ここで多くの学校や団体が明確に金賞ないし銀賞を目指すことで、過去の演奏の反省をしさらに技術の向上を目指すといったきっかけや、審査員という具体的な観客を意識することでどのように自分の演奏が聞こえるか、聞こえるべきかということを明確にイメージすることは自身の成長へとつながるだろう。コンクール本番を終えた後もその経験を胸に、練習や努力といったものの大切さを音楽以外の部分でも生かすことができるようになる。また仲間と過ごした日々もかけ以外のないものであり、その後も楽しい友人として過ごすきっかけとなるであろう。苦楽を共にした仲間ほど親しい友でいられるであろう。いままでコンクールのメリット、デメリットを挙げたが、何を言いたいのかというと我々がコンクールというものを重視しすぎなのではないかという点である。スポーツであっても芸術であっても順位や点数がつき、それを目標や糧に活動することは重要である。しかしながらどちらともなぜ人間が行うのかというと、はっきり言ってしまえば娯楽のためである。自分やほかの人を楽しませるためにやるのであってそれがまったくもって苦痛となってしまっては本末転倒なのである。現在の吹奏楽界ではこのコンクール至上主義がより顕在化しており、金賞以外は意味がないといった価値観や、他の文化祭や地域での演奏では手を抜くといった行為もあるのではないだろうか。コンクールが終わったとたんに燃え尽きてしまい、その後音楽と一切かかわらないという人も多いという。音楽というものは一生ものの付き合いができ、人生を豊かにするものなのでぜひとも続けていただきたいものだが、コンクール至上主義の弊害というものはここにも表れているだろう。肝心なことは音楽に対して切羽詰まるのではなく、賢い付き合い方をしていくことだろう。のめりこみすぎず、かといって軽く扱いすぎない恋人のような距離感を保つことが音楽と長く付き合うコツなのではないだろうか。
やや話がそれたが私がこれまでのコンクールに対していた課題や疑問点をざっくりとであるがまとめさせていただいた。
今回の作曲者の行動と疑問点
今年の課題曲も素晴らしい五曲が選出され、私も演奏会で実際に聞き、その響きに心躍った。そしてこれから夏のコンクールへ向けてのシーズンが始まろうとしている昨今、ツイッターでやや物議をかもす課題曲の作曲者がいる。名言は避けるが調べてもらうとすぐにわかると思う。今回はその作曲者の行動が吹奏楽界に対してあまりよくない影響をもたらしているのではないかという疑問を持ったため、この文を書いている。前置きでも断ったがあくまで私個人の疑問であり、作曲者本人を全否定するつもりではないし、曲自体にも感銘を受けたことだけは断っておきたい。その作曲者の行動の後に私の疑問や批判を述べていくという形式で分を続けていきたいと思う。
①交通費+宿泊費+指導料を含めて 「部員数×100円」で日本全国どこにでも指導へ行く。
作曲者本人はコロナ禍出の活動が制限されていた吹奏楽部員のために格安で、課題曲へと入選したことで得た賞金も使い実際にコンクールで課題曲を演奏する学校へと指導を行っているという。たとえば部員が20人の部活動では2,000円でどこへでも指導へ行くというのである。金銭的に余裕のない中高生にとっては非常に良心的で、部費を気軽に上げることのできない部活動顧問にとっても魅力的な提案であることは間違いない。けれども実際に作曲者が指導するというほかの場合は一時間一万円はくだらないだろう。それは決してほかの作曲者がアコギな商売をしていたり、悪徳だったりするわけではなくそれだけの価値があるからなのである。この場合の価値というものは作曲者による直接の指導だけでなく、作曲者がそれまでに学ぶためにかかった費用、時間や経験といった作曲者自身を切り売りしているようなものなのである。そのため、指導料を過度に低価格にしてしまうと自分自身を低く見せていることと変わりはないのである。また、ほかの作曲者が相場の値段で指導を交渉する際も、異常に高いと思わせる可能性もありこれが常態化すると後進の作曲者の育成にも悪影響となりかねない。これは指導価格のデフレスパイラルということもでき、最終的には低価格で指導を維持しなければならなくなり、かつ、大量の指導をしなければならず余裕ができず作曲活動などが滞るという作曲家においての悪循環が生じてしまう危険性がある。吹奏楽界のためを思っての行動がかえって吹奏楽界への悪影響を及ぼす可能性を考えているのであろうか。
その他に現代音楽の面白さとして、一度楽譜となった曲が作曲者の手を離れるという点もある。確かに作曲者本人から直接説明を受け、楽曲に隠された意図やどのように演奏することを理想としていたかを学ぶことは貴重な機会であり、する上で重要である。けれども現在で直接指導を受けることができないバッハやベートーヴェンの曲を魅力的に演奏できているのは、演奏者や指揮者が作曲者たちの楽譜に残したメッセージを受け取り解釈し、咀嚼することで想像力を持って演奏するからである。課題曲というのはたくさんの団体が演奏するため、演奏者たちの個性がより見えやすくなるという側面がある。作曲者の意見を参考に自分たちなりの演奏ができる場合もあるが、高校生や中学生では音楽的知識や経験が乏しい場合もあるため、必ずしも作曲者の指導から独立し切ることは難しいのではないだろうか。作曲者から直接指導をうけるという機会は人生でも少なく、自分一人で曲を解釈する機会の方が人生では圧倒的に多いため、長く音楽を続けるためにはその訓練が必要であり、コンクールとはその絶好のチャンスでもあるのだ。その大切な訓練の機会を奪っているということにはならないだろうか。
また、作曲者の指導を受けることができた団体と様々な理由から受けることができなかった団体との間で格差が生じてしまう。作曲者は一人であり、どんなに頑張ったとしても日本全国の全ての学校を訪れることは不可能である。その際、明らかに指導を受けた学校は有利となり、受けていない学校は不利となる。公平な審査を行うという観点から、この懸念は見過ごすことはできない。
②色紙にサインを書き、一枚500円で名刺をつけて送る。
本人はこれもまた、課題曲を演奏する際の青春を取り戻すため、学生たちのモチベーションを上げるためという目的で行なっているという。実際に会ったり、指導を受けたりしてサインをもらうということならば理解できるが、ただ単にサインをもらうことだけで本人たちのためになるのであろうかという疑問が残る。そこで自分が中学生や高校生の時を想像してみると断然嬉しいである。当時からてみれば課題曲の作曲者というものは神のような存在で、その人からサインが届いたなどど考えると夢のようである。しかしながらそれは学生という身分がそうさせている側面も否めないであろう。学生を馬鹿にしたり軽蔑しているわけではなく、社会経験や音楽経験の少なさからある種作曲者に対しての信仰心のような気持ちが芽生えてしまうこともあるのである。例えていうならば、高校で年の離れた先生が大人びてみえ、恋心を抱くようなものである。サインを書くという行為が本人と直接接したという証があるからこそ価値を持つ以上、ただ郵送するというのは落書きをした色紙を送ることと変わらないのではないか。
③ジャージで演奏会の指揮をする。
作曲者本人は車一つで日本全国を回っているため、荷物を減らすべく衣服をジャージしか持っていないらしい。そのため実際に指導した学校や楽団の指揮を振る際もそのジャージのまま演奏しているのだ。これは観客に対して失礼にはなっていないだろうか。指揮者が指揮をする際に正装をするのは、オシャレやカッコよく見られてたいという側面もあるだろうが何より、わざわざ演奏会に足を運んでくれた観客に対して敬意を払うということが一番重要だからである。音楽というものは多くの場合聴衆がいなければ意味を持たないため、観客は大切にするべきであるのは当然である。そのため、指揮者や演奏者は正装をするのだ。しかしこの作曲者は演奏会当日もジャージもしくはジャージに燕尾服を重ねるという格好で指揮を振っているのだ。その服装に何か本人が意味を込めていれば別であるが、服装を多く持ち運びが大変だからという理由は観客に対する怠慢と言える。
④自分に対する批判的な意見をアンチとして一蹴する。
Twitterなどで検索すると、今回の作曲者の行動に対して賛否両論が溢れている。ある行動をするとそれに対しての反応があることは当然と言えるが、この作曲者は自分に否定的な意見に対してあまり耳を貸していないような印象を持つ。もちろん中には誹謗中傷と言えるようなただ単に気に入らないからという理由で、作曲者に暴言を飛ばすアカウントもあるためそのような人々は擁護することができず、あってはならないことである。しかし中にはきちんと自分なりの考え方と照らし合わせ思うところがあり、意見しているものもある。それすらも作曲者本人にはただのアンチと混同され、本人の耳に入らないのではないかという不安が残る。
今後の吹奏楽コンクールについて
これまで吹奏楽コンクールの抱える問題や今回の課題曲作曲者の問題について、著してきた。繰り返しになるが筆者はコンクール廃止論者でもないし、今回の課題曲の作曲者の行動を軽蔑したり、全否定したりしているわけではない。単に、その行動によって引き起こされかねない悪影響や懸念について述べただけである。
今後吹奏楽コンクールがさらに発展していくために、必要なことは商業主義や競技というような非音楽的な面と音楽コンクールという音楽面のバランスをどのように取っていくという点に尽きるだろう。これは吹奏楽コンクールだけに言えることではないが、音楽というものはその音楽性だけを追い求め活動することが望ましいが、現代の資本主義社会の中では活動経費を得たり、生活をしたりするために必然的に多くの人に受け入れられヒットする曲を作成、演奏することが増えてしまう。しかしそれだけをしていると文化の衰退は間逃れず、結果的に吹奏楽文化の消滅につながる可能性も否めない。
また課題曲というもののあり方にも、今回再考させられるきっかけとなった。全国で何千人もの人々が演奏する課題曲だからこそ、その曲に対する向き合い方や扱い方が難しい点がある。それに加え、来年度からは課題曲五番がなくなるということもあり全国の吹奏楽愛好家が触れ合う曲が一曲減ってしまうことは逃れられない事態である。今回取り上げた作曲者のように、ある種奇抜で物議を醸す作曲者がいた場合に吹奏楽連盟がどのように対処するかや、吹奏楽界隈の中でどう接するべきかといった点も議論の余地があるだろう。そのほかにも今回の作曲者については「課題曲ビジネス」といった揶揄もされている。これも先ほど述べた商業主義との関わりや、名前を売ることによって今後の自分に有利になるため、課題曲を利用しているように見えてしまうからであろう。この点もどのようにすれば、健全な形で批判を抑え活動できるのかを今後模索する必要があるだろう。
加えて、吹奏楽連盟の今後の運営という面でも疑問を呈したいと思う。現在の吹奏楽連盟の運営がどのように行われているのか。広報活動が十分になされているのかわからないところがある。若い人物が多く関わるからこそSNS活用や動画配信サービスの活動、課題曲の選考過程の公開など、日本の吹奏楽界が盛り上がるために積極的な活動、またガバナンスが必要であろう。
最後になるが、今回話題にした作曲者に対する誹謗中傷や暴言は決して許されるものではない。これに関してはどのような分野、時代の人物にでも言えることができるためここまでお読みいただいた皆様には忘れないで欲しい。