【12/13】名古屋まつり郷土英傑行列コースを毎日歩く ドリー・ファンク・ジュニア
若宮大通(17:36)~大津通北上~栄交差点~伏見~納屋橋~笹島交差点~名古屋駅ミッドランドスクウェア前(18:16)
ようやく頭痛が治まってきました。それに特に風邪の症状なし(!)いやあ一安心です。でも今にして思えば「筋トレ」を二日続けてやった後こうなったんですね。なので筋トレは明日から少しずつ再開することにします。全部1セットずつから始めようかな。
昔のプロレスについて解説したり説明したりする『伊賀プロレス通信24時』というブログがあります。
これが昔の「日本プロレス」のことについて馬場や猪木の頃だけでなく、力道山や豊登の頃も書いてあって興味を惹かれました。その記事の中に、『NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニア初来日』がありました。これを読むと、当時ドリーはあまり高く評価されてなかったようですね。なにせ年齢がまだ28歳(!)でしたから。
「(ところが)日本でのドリーの評価は低いものだった。ドリーがNWA新王者になったことは日本にも報じられたが、まだ日本のマスコミは世界王者はテーズやキニスキーのイメージが強く、未来日だったこともあって、どんな選手なのかマスコミやファンもイメージが出来ておらず、マスコミもドリーを「ひ弱なチャンピオン、キニスキーに勝ったのはマグレ」としか見ていなかった。」と書かれてます。
まあ今にして思えば、前チャンピオンの「ジン・キニスキー」がジャイアント馬場と日本で戦った時の印象が強すぎたのかなあと。ジン・キニスキーって体格は馬場とほとんど互角で、あんなにデカい馬場をプロレス技で叩きつけてフォールを奪ってるのでものすごく強く見えたんでしょう。その男に体もデカくないヒョロヒョロの2世レスラーが勝ってタイトルを奪ったというのですから、「マグレ」とか「親父のコネ?」だと思われたのでしょう。
https://igapro24.com/2020/09/03/ajpw2020-14/
僕が気になったのはタイトル獲得後の本人コメントです。
「楽な挑戦者など一人もいなかった。毎日毎日、60分闘う覚悟で会場入りした。楽な相手なら、大技一発で10分以内に簡単に勝つこともあったが、大抵はそうじゃなかった。平均40分、50分、3回に1回は60分フルタイムだったと思う。」
アメリカ全土(ハワイ、日本も)をサーキットして、各地のヒーローの挑戦を受けるわけですから、そもそも簡単に勝てる相手なんて当ててくれません。もともとアウェーの戦いに加え、挑戦者はタイトルを奪うつもりで攻めてくるわけです。そんな相手を効率よく短時間で仕留められるわけないので・・自然とフルタイムになったり、心ならずも「両者リングアウト」ドローにせざるを得ないわけです。
来日時もご存じのとおり、1969年の初来日時は猪木、馬場とのタイトルマッチはいずれも60分フルタイムのドロー、猪木戦は今でも語り継がれる名勝負でした。翌1970年も猪木戦はまたもフルタイムのドロー、馬場とのタイトルマッチも両者リングアウトドロー、特に大阪での馬場戦は灼熱地獄の中(馬場曰く、心の中で「お母さん助けて!」と叫んだ、レスラー人生で一番キツかった試合)で何とか防衛した厳しい戦いでした。まあ、その間自宅にもめったに帰れないし、ボクシングのチャンピオンとは違った意味で大変だったことでしょう。といいつつ、3年以上続けたのはすごいことですね。