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「友達になんでも相談してしまう」理由の一考察

なんでもかんでも、相談してしまう。
私だけかな。

それで友達からは優柔不断だと認知されているし、
けっこう「なんでもかんでも相談マン」だと思われている。
と思う。

最近うまくいっていない。
相談する。

誰かにするLINEの文章に悩む。
相談する。

夜中、腸の調子がわるくて眠れない。
相談する。

家族と喧嘩した。
相談する。


なぜこんなにも、相談してしまうのかなあ、と悩む。

そして「なんでも相談してしまう癖」について、
相談する。


相談しすぎて、こんなこともある。

①相談していた友人から、相談内容について(私に非があるので)非難される
②①を言われて苦しむ
③違う友人に「なんでも人に相談しないほうがいいよ」と言われる



日ごろ悩んできたけれど、なぜか今日
「もしかしてこれが原因?」
という1つの考察を思いついた。


エピソードトーク

中学校の時が、1番顕著だったかも。

なんとなーく、「変わってる」「変人」みたいなことを言われる、
そういう雰囲気の漂う女の子だった。

そんなときから「変わってた」だなんて、生粋のアーティストなのかも、とちょっとだけ誇らしくて、けっこうカビ臭い思い出。
押し入れの中にしまっていて、普段はあまり見返したくないような。


自分が正しいと思うことは、顔をしかめられてもやってしまうタイプ。
クラスメイトにも、先生にも、たくさんしかめられてきた。

詳しくは覚えていないけれど、
授業中に大声で発言したりとか、「外でやってください」と理不尽に怒られたことに腹が立って、テニスコートで絵をかいたりとか、掃除さえやっていれば問題ないと、トイレ掃除で津軽海峡冬景色を熱唱したりとか。何十回も「山口」。と怒られたなあ。教室とちがって、音が響くから気持ちよかったんだよなあ。

そんなだから、先生からはちゃんと問題児だと思われていたし、クラス全体から変な奴というか、騒がしい奴というか、そんな風に思われていた。

かくいう私はとくに、反逆のつもりもなくて(確かにテニスコートに机を出したのは反抗期な感じがするけれど)、自分はいたって真面目に生きている善良な中学生だと思って疑わなかった。

「自分が正しいと信じているものであれば、それがどうだろうと実行していい」という極端な考えを持っていたんだと思う。

法律も、規律も、きちんと理解している。悪を正と思っているわけじゃない。これだって正でしょう。ちょっと派手なだけで。何が悪いの?というスタンスで、周囲を蹴散らして歩いていた。

問題児だったのに中央委員会に立候補して、面接してくれた先生に鼻で笑われたこともあった。生きてるかなー、あの先生。


でも、こんなガキ大将ガールの脳内の、強気な「何が悪いの?」の中に、たくさんの疑問と傷がつまっていた。
私にとって、等身大で、自分らしい生き方は、そのとき、それしかなかったから。

「嫌われてるな」と、何回も思ったし、何を直したらいいのかなとも思った。高校からは静かにしよう。とおもった。

高校では、静かにしてると友達ができなくて、結局ちょっとだけ騒がしくなった。

その時もまた、「うるさいやつ」とか、「やばいやつ」とか何回か言われて、いじめられていたわけでは全然ないけど、たまーに耳にする噂に傷ついたりしていた。

「変わってる」はもう嫌なの

そういう、ちょっとした痛い思いをしてきただけなのだけれど、
その繰り返しで、
「自分らしさ全開みたいなのって怖いものなんだな」
と思うようになってしまっていたみたいだった。

ここまでの過去が、今回たどり着いた考察のヒントになった。


つまり私は、自分の思考回路をたどってたどり着いた選択肢を、
「変わってるやつが導き出した変わってる選択肢」なのかもしれない、
と一度考えてしまうようになったのではないかな、と思う。

そして自分の周りの友達が思う考えをきけば、「おかしな、血迷った選択」をしないで済むのかもしれないと思って、なんでもかんでも自分の考えを答え合わせしてしまうようになったのではないか、と。

今日も親友に呆れられる。
そこ、そんなに悩むところ?と。

私は、この「変」な自分の選択肢を信じることができたら、
もう1歩大人になれるような、気がする。

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