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続:自己肯定感なんて、いらない
「共感してよ」とか「受容して」と人は言う。
それは危険ですよ、と私は言います。
メンタリングやコーチング、そして心理的コンサルティングに於いて、相手に安易に共感したり受容することは、あなたにとっても相手にとっても危険なのです。
えっ?!と思いますよね。
前回の「自己肯定感なんて、いらない」で記した、自己肯定感よりも自己存在感、という基本的認識のOSをバージョンアップが出来たなら、次に目を向けるべきは、この共感性・受容性についての捉え方です。
ここでは主に、悲しみに陥っている人に寄り添いたいとか、助けたいと思っている、当事者の外にいる人へ贈ります。
”共感”は諸刃の剣
簡単に言えば、共感し過ぎない、という一言に尽きるのですが、人は辛い人や、社会的適合から外れた”痛い人”、に安易に共感してしまいます。可哀そう、が典型的な例です。それは無意識であることが多く、あなたの中に「相手を救いたい」が芽生えます。
それは実は救いたいと思うと共に「相手を変えたい」というあなたの欲求なのかもしれません。相手を変えることはムリです。しかしあなたの無意識から起動するので、その思いは止められません。無意識であるがゆえに厄介なのです。
極端な例でを挙げましょう。自殺する人を止めることは出来ません。たとえ24時間行動を共にしても、あなたが寝ている間は防げません。肉親ならいざ知らず、相手を縛り付けておくことも出来ません。よくよく考えてみれば分かることなのですが、共倒れになってしまうことに気付きません。
こちらに良いコンテンツがあるので紹介しましょう。東京女子大 心理学科のHPからです。
『共感性が高いと危険である?』
執筆者:石黒格(元心理学科教員・立教大学教授)
”共感性は、2つに分けて理解されます。情動的共感性と、認知的共感性です。情動的共感性とは、相手の情動や感情を自分の情動や感情として写し取ることです。悲しんでいる相手の傍らにいたときに、自分まで悲しくなるといった現象を指します。対して、認知的共感とは、相手の情動や感情を自分のものとして写し取ることなく、「相手は悲しんでいるのだ」と理解するプロセスを指します。”
更に、ここが重要です。
”共感はよいものと考えられることがほとんどです。しかし、心理学者のP.ブルームは共感に基づく判断は、むしろ危険で、社会の中で様々な問題を悪化させていると主張しています。私たちは物事について判断するとき、特に社会的な問題について判断するときは、共感に基づくべきではないとブルームは主張します。たとえば、社会福祉政策について判断するとき、援助を必要としている人の大変な気持ちが伝わってくるとか、こないとか、そういう基準で判断してはならないとしているのです。
彼が危険視するのは特に情動的共感です。その理由はいくつかあります。ひとつは、情動的共感が生じるのは、自分の近くにいて「見える」人たちに対して、しかも近しい人や似ている人には生じやすい一方で、その逆の人たちには生じにくいことです。まったく知らない人や、目の前にいない人がどんなに辛い状況にいたとしても、私たちは情動的には共感しません。しかし、社会問題のほとんどは、自分たちとは直接の関わりのないところで生じています。
二つ目の理由は、共感性は、もともと敵対的な関係にある場合には、より敵対的な行動を引き起こすことすらあることです。相手に苦痛を与えたいと思うときには、共感性が高いほうが、より相手の苦痛を理解でき、「適切な攻撃」を加えることができるのです。”
共感より、思いやり
上記の心理学者P・ブルーム氏は「大切なのは共感ではなく、思いやりである」と主張しています。特に情緒的共感(情動的共感)を危険視しています。
私も同感です。相手と同じ気持ちになって沈み込んでいってしまう危険を孕んでいるからです。確固たる強い自分がある人、例えば聖職者や仏教の高僧なら、ゆるぎない信念の基に俯瞰して、心眼で物事を見て適切な言動が行えるでしょう。
しかしながら凡夫にそれはムリです。修行が足りません。(実は修業は要らないのですが、それはまた別の機会にお話しします)
例えば、社会で起こっている悲劇に過度に共感して「やばいやばい」と騒いでしまう人は、自分が痛くなってしまって、問題を大きくしてしまいます。
あるいは、「そんなふうに考えるあなたが悪いのよ。他の人に迷惑かけてますよ。だから普通の人のやる様にやんなさい」などと逆に攻撃してしまったりします。良かれと思っているので、こちらも止められません。
それはあなたの問題ではありません、悲劇の当事者の問題です。あなたが悲しんでも問題は簡単には解決しない。そう気付くことが先決です。
因果応報:原因があって事が起きる
問題には必ず原因があります。だから、悲しみを生む根本原因を見つけることに目を向ければ良いのです。
いまウクライナで戦争が起こっていますよね。だれもが心を痛めますが、過度に共感すると問題解決から遠ざかります。
日本の政府は国所有の飛行機を飛ばして援助の手を差し伸べました。システムで解決しようとしているのです。
過去にポーランドのアウシュビッツへ送られるユダヤ人を助けた日本の外交官、杉原千畝という人がいました。自分が痛くなるのではなく、悲しみを客観的に受け入れて行動に起こした人です。 オスカー・シンドラー氏も同じですね。過度に感情移入しては、その人のメンタルがやられてしまいます。
私は2016年、アウシュビッツの地を踏みました。悲しみに胸が震えました。
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ナチスドイツが逃げる時に破壊してガス室を前に慄然としました。
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悲しいけれど、どうしようもない。数々の悲劇の展示を前にして何もできない。情緒的共感に陥るとメンタルがやられます。なので、起こったことを客観的に観察して「共感し過ぎない」という冒頭の言葉に繋がります。
悲劇は起こってしまった。だから悲劇は繰り返さない。問題の本質を捉えて、それを取り巻く(社会)システムや環境を変えていくにはどうしたらよいか、と俯瞰し、理論的に考えることが問題の糸口を見つける近道になります。
前述の二つの共感「情緒的共感と認知的共感」のいう”共感する”ことでは悲しみの人の問題は解決は出来ない、というのはそういう訳です。
日本女子大のコンテンツはこのように続きます。
”最後に紹介する理由は、情動的共感から生じる援助には、共感から生じた自分自身のネガティブな情動を解消する目的から、無意識のレベルで生じている部分があることです。このようなプロセスでも援助はもちろん起きやすくもなりますが、一方で、ネガティブな情動を解消する方法は援助に限りません。単にその場から立ち去って「見えないようにする」ことだけで解消できますし、そのほうが簡単でさえあります。さらに悪質な場合、苦しんでいる人を自業自得と攻撃することでも解消できます。「悪者」の悲劇は快をもたらすことは、脳科学でも明らかになっていることです。
では、共感性は消し去るべきなのでしょうか。そうではありません。ブルームは、認知的共感にこそ、社会的には重要な意義があると主張します。認知的共感と他者への尊重、たとえば「人は誰しも幸せになる権利を持っている」という考え方が組み合わされたとき、私たちは相手の感情がどうであれ、また自分の感情がどうであれ、誰かに援助の手を差し伸べるでしょう。このとき、私たちは目の前にいない人、自分の仲間ではない人にも手を差し伸べることができますし、そのほうが適切な対処ができる場合も多々あります。例えば医者と患者、親と乳幼児の関係を考えてみてください。患者や赤ちゃんの情動に巻き込まれていては、適切な対処ができませんよね。
ブルームは、大切なのは共感ではなく、思いやりであると主張しています。そして、情動的共感性よりも、思いやりを身につけることのほうが容易だともしています。次に苦しんでいる人や悲しんでいる人にであったら、その人の苦しみや悲しみを感じ取れるかどうかではなく、その人の辛さを解消するためにできることを理性的に考えてみてはいかがでしょうか。”
だんだん分かってきました。では、
「その人の辛さを解消するためにできることを理性的に考えてみては?」
とはどういう事でしょう。
”死の匂い”から離れる
情緒的共感の先には”死の匂い”があるのです。
生存を脅かされている人がいる、その人がどんどん増えたら自分もそうなる、自分の生存が脅かされる、だからどうにかしなきゃ、となる。
つまりは死ぬのが怖いのです。
ハッキリ言いましょう。死は生きることです。死を認識して初めて生きる意味が分かるのです。大病をした人や、瀕死の事故に遭った人が「生かされている」ことに気付いたとき、ああ生きているこの一瞬一瞬が大切なのだと気付きます。安全安心で、健康で、不自由なく過ごせていた時の有難さを知るのです。
死を認識するということは、これと同じことです。
生と死は表裏一体。死の裏には生があり、生の裏には死があります。
死生観ですね。わたしは生死観と言います。生まれる方が先だと思うからです。死を身近に感じるがゆえに、生きることの愉しさを感じることが出来ます。こちらが参考になるでしょう。
人間とは何者か。自分は何者か。それを自分に問う。そして自分なりの答えを見つけ出す。
深く深く、考え、世界をひと回りする旅の先に辿り着いた、私なりの結論が生死観です。あなたも、ご自身の生死観(死生観)をお持ちになれば、心安らかに過ごせる日々が来るでしょう。
上記ブログ:人生の愉しみ方にはこんな言葉が続きます。
・死について考えることは、生について考えること
・輪廻転生で「死を超越」する
・命がいま、あなたを生きているのです
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仏教から学ぶというリバースエンジニアリング
世界の宗教を旅の空で訪れました。キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教。物事の真理は、実は日本にありました。仏教です。
私は仏教を宗教とは捉えていません。
仏教は哲学です。
なぜ生きるか、いかに生きるか、です。
2600年前に釈迦も同じ問いを立てました。
人間とは何者か。自分は何者か。
彼は王子でありながら妻も子も捨て、苦行を重ね、真理を追い求めました。しかし何も得られませんでした。疲れ果ててブッダガヤの菩提樹の下で休んでいると、村娘のスジャータから乳粥の布施を受けて回復し、悟りを得ました。
人事を尽くして天命を待つ、とは、一生懸命頑張ると良いことがある、ではありません。天命は既に決まっている、だから「いま」を頑張る、愉しむ、それが人生という時間の旅なのだと教えてくれています。
「いま、ここ、わたし」。その連続が「時」で、これを愉しむのが人生。
私の根本にある哲学は、仏教とシンクロしています。
心の安寧は、案外身近にあることをお知らせしたくて筆を取りました。仏教を哲学と捉えると、東洋思想を知ることが出来ます。論語に行き着きます。真言密教に行き着きます。様々な教えに行き着きます。西洋の唯物論にとらわれない、先人たちの叡智に触れることができます。
調べる、知る、学ぶ、考える、腑落ちする。
自分一人でやるより、知りたい人と一緒にやると楽しいでしょう。メンタリングは学びの日々です。どうぞ一緒に学んでいきましょう。
ではでは
三川屋幾朗@mikawaya1960
公共メンター https://menta.work/plan/954
参考:
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