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ものかきものがたり・6行め:「邂逅」

日雇いの倉庫作業にも、行かなくなった青年は、東京で無為な日々を過ごすだけの無職の男に成り果てていた。
物書きになりたい、アニメの仕事がしたい、という夢、願望、妄想すらも――その頃には手の届かない輝き、海中の宝のように、青年の中では追うことも、目を向けることすら苦しい『呪い』になってしまっていた。

それでも、青年は故郷の三河には戻らなかった。
今戻れば都落ち、作家になどなれるわけがない、と私を諭してくれていた恩師や家族、友人たちの正しさを認めるのが耐え難く。そして、底辺ではあっても東京の暮らしに順応しつつあった青年は、いまさら、三河に戻っての就職活動などする気も起きないまま。
二十歳が間近に迫っていた、底辺そして無職の青年は……。
手元にあった倉庫日雇いで貯めた現金も底をつきかけ、翌月の家賃、そして食費を手に入れるために次のアルバイトを探し始めた。
もはや、アニメ学院に通うための休日を作る必要もなく……青年は、近場で、なるべく待遇の良さそうなアルバイトを求人情報誌で探し。そして……。

見つけたのは――駅ビルの中にあった、小さな印刷会社の仕事だった。
未経験者歓迎、時給は550円から。時間は朝9時から6時まで。社員のみ残業あり。
私は運良く、そこのアルバイトとして雇用してもらえて。すぐに働き出した。
その印刷会社は、受付の窓口店舗の奥に、当時普及し始めたゼロックスのコピー機が何台も置かれていて、青年はまずそこでコピー取りの仕事から始めさせられた。あの頃はまだ、コピー機が社屋にない会社や事務所も多く、コピーの仕事は繁盛していた。
青年は持ち込まれる伝票やファイルを、指定通りにコピーし、仕上がったそれを専門の袋に入れて受け取り担当に渡す。そんな簡単な作業。
そして、すぐに無くなるコピー用紙を離れた倉庫まで取りにゆく。そこに通い始めてから数日後には、農業と日雇でそれなりの体力があった青年は、コピー用紙を倉庫から運ぶ業務が主に与えられるようになり、試用期間も終わって、そこでの仕事にも馴染み始めた。

そして、コピー業務に新しいアルバイトが入ったら――青年は、別のフロアにあった大型のコピー機、B1版の製図などをコピーするための青焼複写機、通称ジアゾの作業にも回され、そこでジアゾ焼きのやり方も覚え。そして、そこでの業務は複写した製図や地図を、預けられた原版と一緒に土建会社や工場、区役所などに送り届ける仕事が主なものとなった。

そんなコピー業務が身についた青年は、次に……その印刷会社の主力業務、印刷の工場への作業に回された。
駅ビルの一角、4階にあった、数店舗のフロアをまたいで稼働していた印刷工場。そこで青年は――それまでのコピー業務とは桁違いの枚数、否、もはや枚数ではなくKgキログラム単位、最盛期にはtトン単位で、印刷された紙が出荷されてゆく現場での作業が与えられた。
そこでは……何台もの印刷機が、1日中フル稼働し、様々の印刷物を刷り上げる。
その内容は、100枚単位の個人の名刺から、数万部単位のパンフレット、チラシ。社名入り封筒。多岐にわたるそれらの印刷物を、専門の機械、そして熟練の印刷職人たちが刷り上げる。
当時は、デジタル要素がまったくないアナログな、レバーとダイアル目盛りで調整し、インクを手で練って印刷する職人の手業が要求される印刷業務。青年に与えられた仕事はもちろん、高度なそれではなく、倉庫から印刷の用紙や封筒の梱包を取り出し、工場まで運ぶ業務――
一番軽い、A4の用紙が500枚セットで2Kg。それが5つ詰められた10Kgの箱を倉庫から取り出し、台車に6個乗せて工場まで運ぶ。

そのビルでは、客用のエレベーターを店舗が使うことは許可されておらず……かといって作業用エレベーターは、常に渋滞しており。急ぎの印刷で、用紙の補給が急務の場合は、青年は人力でそれらの用紙を運び上げる。
台車を転がし、階段では、台車から降ろした紙の梱包を担いで登り……最後に、カラの台車を担ぎ上げて上のフロアで台車に紙を積み直し、転がし、また階段で――そんな業務を、延々とやらされていた。
駅ビルの中ゆえに、フォークリフトはもちろん、ハンドパレットトラックビシャモンすら使えない現場では、アルバイトの体力と腕力を頼りに、紙を運び、そして……印刷物を、同じように人力で運び出し、納品していた。

それでも……。
その前にやっていた、倉庫の日雇い。倉庫の中を、罵声を撒き散らす社員が運転し、突進するフォークリフト、その車輪と爪を避けるのは日雇いの役目――これが現代のフォークリフト講習なら、午前中で落第させられるような危険極まる現場よりは、この人力だけで重量物を処理する印刷工場の仕事のほうが青年の気質にはあっていたし、何より安全だった。
青年は、印刷工場の業務、用紙運びの業務にも慣れ、しだいに工場の中の様々の業務も任されるようになっていった。

その現場で、青年は初めて……大量の『同人誌』というものを目にした。
それまでも、同人誌即売会コミックマーケットの存在は知っていつつも、遠い世界のそれだと思っていた青年には……夏と冬の繁忙期に、トン単位の紙、ガロン単位のインクを消費して刷られてゆく大量の印刷物、同人誌の山は……今まで知らなかった世界を見た、衝撃、そしてある種の憧憬を青年に与えた。

……そうか。ここは東京なのだ――
コミックマーケットは……晴海は、眼の前だ。
こうして印刷される同人誌が持ち込まれるコミケ、同人誌の世界が目の前にある。
……そうか。こういう世界、そういう創作、物書きもある――

青年は、印刷業務の中でそれらの同人誌を見、いままでもう目を向けないようにしていた創作の世界に――否応なしに、また顔をねじ向けられ、目を開かされていた。
その頃の彼の中には、正直……。
同人誌を、同人活動を見下している、一般の書店で売られる書籍、コミックなどと比べて下に見ているところは……あった。自分がしてもいない、足を踏み入れてもいないのに……。
「けっきょくは同人、パロディ、他人の褌じゃねーか」
などと、不遜と言うか、知らないという名前の蛮勇だけが空回りしていたそんな青年……だったが。

印刷工場に回された青年は、その最初の冬に……ある同人誌の印刷、今まで見たこともないほど大口の発注がされた印刷の現場に、回された。
そこで印刷されていた同人誌は……いわゆるJUNE系。耽美なホモセクシャルを題材とした、オリジナルの同人コミックだった。当時はまだ、BLボーイズラブというワードはなかったように記憶している。
そんな、当時の青年からすると――
「うわ、少女漫画っぽいと思ったら、ホモかこれ。……すげえ、セックスしてる」
……最初、嫌悪感めいたものがなかったといえば嘘になる。
……それは。純真だったアニメ好きの青年が、エロパロの男性向けアニメ同人誌に感じていた嫌悪感と同じで。
……だが。
納入された原稿、写植されたそれが印刷、製本、裁断され……箱詰めされ。サンプルがチェックされる中、青年はそのコミック同人誌に目を通し、ガッツリ、読みふけり。
……三河にいた頃から、青年は当時の少女漫画、とくに萩尾望都先生の作品に夢中だった青年は、耽美、ホモセクシャルな世界にも触れていて――だが、印刷の仕事で目にするJUNE系なコミックは、もっと直截的な描写で……だが、男たちのドラマと関係性が描かれていて。
青年は、そこで……。
目を背けていた創作の世界、そこにあった、全く知らなかった側面を目の当たりにして……最初感じていた嫌悪感は、すぐに、困惑めいた憧れに変わっていっていた。サンプルが刷り上がると、整形の裁断機に入れる前に検品しつつ、それを読みふけって……いた。

私に、印刷工場でいろいろ親切にしてくれた印刷工は。
それらの、夏と冬に来る大量注文の耽美系な同人誌の仕事を前にして、薄笑いで青年に。
「菅沼も、もう。伝票見んでも――これが何部刷って納入するかわかるだろ」
「……200部の梱包が、今回だけで50。これが4回、来るんでしたっけ」
「ああ。うちだけで4000。んで、このセンセーはうちだけじゃ間に合わねえから他の印刷屋も使ってるから。いっぺんで万の単位を印刷して、売りさばいてるってこったな」
「……。でも、万ですよね。……本屋で売れてるコミックなら、万くらいだと打ち切りレベル――」
「あほう。これ同人だぞ。しかもオリジナルだ。経費抜いたら、売り上げは全部自分のもんだ。おまえも作家やりたいんなら、出版の、印税の大体の取り分は知ってんだろ」
「…………。この耽美の作家さんは、10万、20万部の作家さんと同じ……?」
「それどころか。年に二回でその売りあげ。最近は、同人誌売る店や通販もあるからな。実際にはもっと稼いでるはずだ。菅沼、同人とかバカにしとったが……おまえの時給と比べたら、どうだ」
「…………」
「どんな仕事でも、売れて銭にならなきゃどうもならん。それに、この作家さんにはな――毎年、新作を待って銭を握りしめとるファンの人が数万人、おるっちゅうことだ。どうだ、おまえにはそういうの、おるのか?」
「…………」
何も言い返せるわけもなかった。
上京し、挫折し、様々のものから目をそらし続けていた青年の前に突きつけられた……眼の前に立ちはだかった、知らない世界の巨大な……壁。
だが。その壁は、絶望の黒さ、重たさ、冷たさのそれと違い……。
目ではなく、肌で感じる陽光のそれにも似て……輝いていた、熱く、青年には感じられた。

「……でも。俺には漫画は描けない。それに……耽美とかわからん。エロパロとかごめんだ……」

青年は、巨大な壁の前で……やはり、このときもうつむいて、目をそらし。だが、年に何回も突きつけられるその現実の数字を相手に――迷走すらできない、走り出すこともできない困惑の中でただ、アルバイトの生活を続けていた。

そんな青年は、それでも印刷工場の仕事に慣れて――
同人誌印刷も大口の仕事だったが、それ以上に大量発注が来るのが……宗教の仕事、その印刷物だった。
駅ばらまかれ、家屋やアパートのポストにねじ込まれる大量のチラシ。
信徒になった者たちに配られるパンフレット。そして……寄進、その宗教だと『玉串料』となっていた、現金を包むための専門の封筒も、大量に発注され、印刷工場はそれを印刷。
青年は、週一で、その宗教の事務所に大量の印刷物を届ける仕事も任された。
……そのチラシ、パンフレットの数、そして――寄進を包む封筒の数の多さにも、青年は別の世界を見せられ、そして……毎週、ゲンナリしていた。

寄進の封筒は、一番安いもので5000円用。次が、2万円用でこれが一番大量に印刷されていた。その上が確かもう10万、さらにその上は金額が明記されていない、特別な和紙で作られた封筒に宗教と教祖の名前と、何かの印章が印刷された封筒。
それらを毎週、数百、数千の単位で納入。一体、どれくらいの金額が、この最大手でもない宗教に流れ込んでいるのか……その計算、その現実は……あの耽美コミック同人誌の数字以上に、青年の精神にやるせない虚無感を毎週、重しのように積み上げていっていた。

「……俺も同人をやるか。……だが、テキストの同人は金にならん、客もつかない――」
「……アニメの仕事など、募集もない。……作家にもなれない。……俺は何のために生きている――」
「……もう、三河にも戻れん。……俺も、あの日雇倉庫にいた禿爺みたいになっておわるのか――」

印刷屋で働いていても、結局は……夢が潰えた青年の現実は、何も変わらず。
印刷工場で、それなりの給料がもらえるようになっても――青年は、その金をだらしない飲み方の酒や、どうでもいいことに浪費してしまい、家賃すら滞納してしまう情けない生き方まで落ちていた。


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