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三河もん昔話:3 女郎蜘蛛

これは私の故郷、三河の片隅にある、とある農村。私の生まれ育った村での話。
私の生まれたU村は、まさに谷岡ヤスジ先生ワールドな農村ソン
世界有数のインダストリアル、トヨタ自動車の巨大工場がある豊田市街……から、少し離れるとそこはもう、自然あふれる農村だ。U村も、そんな農村の一つ。私はそこで生まれ、少年時代を過ごした。

U村には、昔ながらの神社、神明神社がその中心にあった。神明神社は、伊勢神宮内宮を総本社とし、天照大神を主祭神とする神社で、農耕、農民の神社でもある。
U村の神明社は、古墳のある丘の上に建てられ、当時は鬱蒼とした森に囲まれていた。中でも、神社の奥にそびえ立つ樫の木は、樹齢数百年を数える巨木で。その木立、樹勢は神社の前の広場を覆い尽くすほどだったのを覚えている。
当時、インターネットもゲームもなく、テレビも子供は自由に見られない時代。神社は、子どもたちの格好の遊び場だった。私も、近所の悪童どもと一緒になって、学校の帰りに神社の周囲を駆け回り、お社のある石垣をよじ登り、しょっちゅう怪我をして。
夏には蚊にくわれまくりながら虫を取ったり、秋にはどんぐりを拾ってぶつけ合ったり。おそらく、江戸の頃から変わらないような遊びに、悪童どもは日がな一日、明け暮れていた。
そんな、私たち悪童に――
村の大人たち、農夫のおっさんたち。そして老人が、いつも話す「警告」があった。
それは……。

『神社の大樫の木には、女郎蜘蛛が住んどる』
『女郎蜘蛛は、ひとりで遊んでる男の童をみつけると、木の上にさらって精を吸う』
『吸われた童は、気を失って木の下で見つかる。〇〇の爺も、童の頃にやられた』
『ええか。神社では、あの木の下では、独りで遊ぶのはだちかんぞだめだぞ

子どもたちに語られる、警告。
それは厳つい顔でのものだったり、薄ら笑いのそれ、子どもたちを怖がらせるだけの戯れ言ざれごとでもあったりした。
私たち悪童どもは、その警告に怖がってみせたり。あるいは、馬鹿にして信じないふりをして――たぶん、この神社が作られて数百年。この神社に、樫の木が茂って木陰を落とすようになってずっと、何世代も言い伝えられてきたそれを聞かされて。
そして。
私は。きっと他の悪童たちも。ひとりきりのときに、あえて神社に。静まり返った境内の、白昼の日差しと、それを遮った樫の巨木、その下に行ってみたりしたものだ。
もちろん、なにがあるでもなく――ただ、ただ。
見上げても、ゴツゴツした幹の木肌と、生い茂った枝葉しか見えない樫の木の下は。ひとりだとなにか物寂しく、不安になって。
「女郎蜘蛛なんて、おらせんやんいるわけないじゃん」と。
友だちを探して、そこから走り去っていたものだった。

そんな或る日。夏の、ある日。中部地方、三河を大型台風が直撃した。
深夜に、三河を海から陸へと打ちのめしていった台風。それが過ぎ去ると、大雨と風で、田んぼは半ば泥沼。大人たちが、朝から水門の清掃や修理の立ち回る中……村にあった神明神社にも、被害が見つかった。
神社と、神殿は無事だったのだが――あの、樫の巨木が突風にやられていた。樫の木は、上の方で太い枝が風で折れ、幹が裂けてしまい、今にも家の垂木くらいある太い枝が、神殿の屋根に倒れ込みそうになっているのが見つかった。
これは、あかん。村の男たちは相談し、急いで。次の台風が来る前に。倒れた樫の木に、神殿が潰される前にと、その樫の木を伐ってしまうことが決まった。反対もあったが、幹も裂けている上、どうせ上の方の太い枝を払ったらこの木はもう駄目だと。新しい樫を植えようと、話は進んだ。

そして。数日後、足助からそまと呼ばれる木樵きこりの男たちが呼ばれ。神社で神主さんがお祓いを済ませたあと、百年以上を、神社を木陰で守っていた樫は伐られることとなった。
杣たちは、巨木に縄をかけ、上によじ登り。神社の屋根に枝を落とさぬよう、上から伐採する仕事を始めた。その作業は、神社の総代たち、手すきの村の人々、そして……そこで遊んでいた悪童たち。
私たちが、無言で見守る中で行われた。
そのとき。木の、上の方で――

「なんやらあ、こら」なんだ、こりゃあと。
杣の、かしらの声が響いていた。

「なんやあ、こら」
「わからん、あぶねえから降ろせ降ろせ」
「禰宜さんか神主よべ」
杣の男たちは、樫の巨木の上でなにか見つけたようだった。
村人たち、悪童、そして神主さんが見守る中……木の上から降ろされたのは、
「……なんじゃ、これ」
そこにあったのは。
杣たちが、もっこで。縄でくくって下ろしたそれは、古びた家財道具。当時のU村の、一番古い家にももう置いてないような、古い家財。

漆の塗られた木の箪笥たんす
垢じみて、木の葉や屑がいっぱいついた木綿の布団。
蓋のない、真っ黒な南部鉄の茶瓶。
たがが緩んで、朽ち掛けの水桶。
欠けた茶碗。焼け焦げた皿。
灰色に濁った、手鏡。

……それらが。樫の木の上から降ろされ。むしろの上で。台風が過ぎ去ったあとの眩しいほどの晴天、陽の光に照らされて……いた。
「なんじゃ、こら」「なんで、樫の上にこんなもんが」
気味悪そうにどよめく村の男たちに、杣が。
「わからん。この木の上、朽ちてごみがたまったほらになっていてよう。枝葉の下んところに、これがあった」
「幹が裂けて、その洞が崩れてたんや。めっそう、臭くてのう」
杣の言葉に、村の男たちは――
「まさか。木の上に、乞児ほいとか誰か、おったんか」
「あほうぬかせ。杣たちでも縄、かけんと登れんのやぞ」
……じゃあ。いったい――

杣たち、そして村の男達が沈黙する中……私たち悪童も、大人たちの影から『それ』を見ていた。
――女郎蜘蛛。
誰もが、同じことを思っていたが。
口に出せば、それが本物になって現れると。皆が恐れている、そんな空気の中。総代の誰かが
「神主さん。これお祓いしてちょう」
「……いや。寺の和尚おすさん呼んでこい」
みなが、それを。
樫の木から降ろされた、古びたその家財道具。気味の悪いその塵芥を、目につかないところに放ってしまいたがっていた。
すぐに呼ばれた、村のお寺の和尚様が。何かのお香を炊いて、真鍮の器から木の枝で水をまいてお祓いをし、その古びた家具に御経を上げ……杣たちが、樫の木を伐る作業を続ける横で。
古箪笥も、布団も、桶も、鍋も皿茶碗も。鏡も。
すべて、火の中に投げ込まれ。燃え残りは、境内に掘られた穴の中に埋められてしまった。

私たち村の悪童は、その一部始終を見……そして。小気味いい音を立てながら、樫の木の枝をまさかりで打ち、幹に大鋸おおがを入れる杣たちの仕事ぶりを見……。

「…………。おい、きょうじ。どうしたん」

「…………。――…………」

……私は。他の悪童どもに混じって杣たちの仕事を見――否。
焼かれ、埋められたあの古道具たち。それが埋められた、掘り返された地面を。ひとり、ぼうっと。友人が声をかけたのにも気づかず、呆けて、みつめていた。
「きょうじ、どしたん」
「そいつ、たあけやから。あの茶瓶でも欲しかったんか」
「……ぐあい、悪いんか。かあちゃん、呼んできたろか」
友人の、たかし君が私の肩を揺すって、呼びかけていた。
だが、私は呆けたまま。ただ、その埋められた穴を見つめ……私は。

そこに、違うものを見ていた。
それは、記憶のような。消えてしまった、思い出のような。
昨夜見て、忘れていた夢のような。あやふやな、バラバラの。意味のない。
だが……。

――黒っぽい、着物。
――茶色、否、赤の帯。着物に巻かれた、赤い帯。
――帯の上の、鮮やかな黄色い帯紐。
――誰かの、手。汚れた爪が伸びて、割れた爪の。手。
――そして。
――笑み。薄い唇。その中の、まばらな茶色い歯。
――大きく笑んでいる、その口。
――口から上は、思い出せない。どうしても、思い出せない。
――なにか、言っていた。言って、笑って。そして……そうだった。

「きょうじ、どしたん。……おおい、きょうじがぶっ倒れた」
「かあちゃん呼んでこい。……おい、きょうじ。おおい」

今から50年ほど前の、昭和。いまは、豊田スタジアムが建つあたりの昔ばなしだ。


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菅沼恭司
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