人が亡くなった時には、2種類のショックがあると思う。
三浦春馬さんが亡くなりました。
三浦さんの出演作をチェックしていた訳ではないのですが、以前歌番組でミュージカル「キンキーブーツ」の曲を歌っている三浦春馬さんを見て、あまりの素敵さにぜひ行ってみたいと思っていました。
歌番組を見て、生の舞台に足を運びたいと思ったのは初めてのことでした。
私は介護の仕事をしているため、人の死に接する機会が多くあります。仕事をする前にも、親類や同級生の死に接したことが何度かありました。
そこから感じているのは、人が亡くなった時のショックには、2種類あるのではないかということです。
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一つ目は、「まさかあの人が亡くなるなんて」「亡くなるなんて信じられない」という人が亡くなるということ自体へのショックです。
亡くなった人が若い場合ほど、この気持ちは生まれやすいと思います。
また、いつも側にいてくれた人、自分の中で側にいることが当たり前になっていた人が亡くなった時も、この気持ちは強くなると思います。
何の前触れもなく亡くなった時などは尚のことです。
このショックは、残された人の気持ちを大きく動揺させます。
あの人は亡くなったのになんで自分は生きているんだろう、
どうしてあの人が亡くならなければいけなかったのだろう、
というような答えのない疑問に苦しむこともあるかもしれません。
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二つ目は、「その人にもう会えない」「その人との新しい思い出を作っていくことができない」という「〇〇さんがいない」ということへのショックです。
この悲しみは、一つ目のものに比べると劇的なものではないかもしれません。
ですが、日常の隙間にすっと入り込んできます。
使われなくなった茶碗を見れば、その人を。
よく一緒に行った場所に行けば、その人を。
その人が好きだった食べ物や、似たような背格好の人をみてはその人を思い出し、もういなくなってしまった、という事実に向き合うことになります。
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人はみんないつか死ぬということは、頭ではわかっているけれど、気持ちが追い付かない
と、学生の頃は思っていました。
その時は意識していなかったけれど、裏を返せば、人の死をたくさん経験すると気持ちが追い付いてくる、と思っていたのかもしれません。
今は、人はいつか死ぬということへの実感はかなり強く持っています。
それでも、人が亡くなることにショックを受けない、なんてことはありません。
頭で分かっても、体感として理解しても、人が亡くなることはショックです。
でも、そのショックこそが、その人が自分に与えてくれたものの大きさを表しているんだと思います。
亡くなった方が私たちに与えてくれたたくさんのものに敬意を表して。
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仕事で関わっていた人が亡くなった時に書いたnoteです。
生前も、亡くなってからも、多くのものを私に与えてくれた方でした。