境界性パーソナリティ障害と自分
これが最初の投稿になる。まずは自分という人間を書いていきたい。
今29歳で9月で30歳になる。一応会社員。この病気に気づいたのは最近だ。昔からメンヘラなんじゃないかなとは思っていたが、2月後半にいよいよ自分の頭はおかしいんじゃないかと感じて心療内科に行って境界性パーソナリティ障害だと診断された。
心療内科に行くきっかけの前に自分の家族の話をしたい。両親は高齢出産だった。父親が44歳、母親が37歳の時に自分は生まれた。2歳上の兄がいる。夫婦仲はとても悪かった、家庭内別居状態が続いていたし夫婦げんかもよく見させられた。父親が母親の首を絞めているところも記憶に残っている。だが、本当に自分を苦しめたのは母親である。母親はすぐにヒステリックを爆発させる。
酒を飲んで何時間でも罵倒し続けるのは日常茶飯事、具合が悪くなって寝ているのに首を絞めたり、怒鳴り散らして土下座させられたり、産まなきゃよかった、出てけなどの罵詈雑言のオンパレード、平気で平手打ちもかましてくる。食事も長いと一ヶ月は作らない。
毎日が地獄だった、朝起きるのが地獄だった、学校から帰って家のドアを開けるのが地獄だった。他の友達が親と仲良さそうにしているのが羨ましかった。
母親を怒らせないように必死だった、兄は何もしなかったから何でも率先してやった、だが母親が言い放ったのは「お前はいい子ぶっている」だった。母親に褒められた記憶はない。愛されたとも思えない。酔って「お前達の為に言ってる」とかのたまう時もあったが、本当に子供たちの事を思っているなら上記のような事は到底できるはずがない。
思えばこの時から私の人格は歪んでいたのだと思う。愛されていない、生きていてはいけないのだと刷り込まれたのだろう。
小学4年生の時に両親は離婚して母親に連れられ兄と3人での3人暮らしがスタートした。
母親のヒスは収まるどころか増していく。すぐに父親のとこに行けや出てけとキレまくる、出ていけるわけないのに。これがすごく嫌だった。今でも鬼の形相で出てけと言った母親の顔を覚えている。ひどい顔だったわ。
兄は吃音症だったので比較的母親から庇われていた。兄と自分は顔も性格も全然似ていない。兄は文科系だが私は体育会系とまでは言わないが普通に運動部に所属していた。
話は少し進んで兄が田舎の国立大学に進学が決まり一人暮らしをすることになった。一時は母と二人暮らしとなった。その4年後、兄は就活がうまくいかなかった。吃音症を理由としていたがまあこれはまだいい。結局また3人で暮らすのだが母親は兄と私を同列にして文句を言う、「いつになったら楽にさせてくれるんだ!」「これからどうやっていくんだ!」大学生の私に言うセリフとはとても思えない。
兄は吃音症を理由にろくにバイトもしなかった。何かの資格を取るんだと言い勉強していたようなしていたのかはわからないが部屋に逃げていた。営業でもなんでもしろよと言えば「言葉がー」とバカの一つ覚えに言ってくるようになった。母親も吃音症に産んだ引け目があるとかで兄には強く言わなかった。母親もすぐ「兄は言葉がー」と言っていた。私にはバイト代もすぐに徴収していたくせに。
2年後私は無事に就職することができた。だがその会社は中々のブラック会社であった。新卒2ヶ月目にして手取りが30万を超えた(初任給は20万だった)休日も月に1日しかない月もあった。更に上司がパワハラ気質で電車に飛び込んでしまおうかと思った。
母親に会社が辛い、上司が辛いと言えば「みんな我慢している」「やめたらどうやっていくんだよ!」と聞く耳を持たない。私はただ辛いね、無理しないでねと言ってほしかっただけだ。同じ時期に兄が短期のバイトをしていた。この時に兄が少しでも嫌な思いをしようものなら「兄は嫌な思いしたらしい」と庇うのだ。要するに私は搾取子であった。家で首を吊って母親が帰ってきたら死んでいて一生後悔させてやろうかとも思った。
26歳になった秋に、私は転職して今いる会社で働く事になる。その話はまた明日書きたいと思う。
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