時の迷い路 第四十三話
第十一章 白夜(四)
日はとうに暮れて夜闇に支配されていたはずの世界が割れ、光と闇が拮抗している。白夜。遠く離れた土地で稀に見られる現象だと旅人の話で伝えられてはいるが、シレア国で起こるなど前代未聞だ。
塔の前にじっと立ち尽くしていても仕方ない。シードゥスはその場に繋がれていた賊のものらしい馬を自由にし、獣の目をひたと見つめて危害を加えることはないと安心させる。少しの間互いに見合うと、馬は瞬きをしてシードゥスに鼻をすり寄せた。
馬が心を許したのが確認されるや、シードゥスはウェスペルを手招きし、軽々と持ち上げて馬の背に跨らせた。すぐに自分もウェスペルの後ろに飛び乗る。「はっ!」という短い掛け声を合図に、馬は二人を乗せて地面を蹴り始めた。
「この状況でウェスペルが城に戻るのは危険だ! まずはアウロラ様がいらっしゃる東塔に行く!」
馬の蹄と風の音に消されないよう、シードゥスが耳元で叫ぶ。
「でも城のみんなが危ないんじゃないの? 大臣さんたちもう戦ってるんじゃ?」
「いま俺たちが戻ったら足手まといになるだけだ! それに少なくともあのじーさんなら余裕で平気! なんてったって……」
シードゥスの言葉は途中で切れ、ごくりと唾を飲む音が聞こえた。後ろから手綱を握る腕がウェスペルの肩に触れ、瞬時に強張る。
視界の前方、二人が走る道の先から、一頭の馬が荒々しく落ち葉を蹴散らしてこちらに向かって来ていた。
「ともかく城に戻ろう」
兄王子はアウロラを促して自分も馬の背に跨り、慣れた所作で馬の腹に合図を入れる。久し振りに並び駆ける友が嬉しいのか、アウロラの愛馬も兄王子の駿馬に負けるまいと常よりも勢いよく走り出した。
「これは……時計台や地下水の異常だけならまだしも、空まで変わってしまうなんて……こうなったらシレアだけの問題じゃなくなるわ」
「ああ。ずれが生じているのは我が国だけではないらしいな。だがテハイザの仕掛けた暴動を止めないことには落ち着いて事に当たれない」
常日頃と変わらず、兄の声音は驚くほど冷静である。整った顔には外遊の疲れなど微塵も見られず、蘇芳の瞳は揺るぎなく前を見つめている。
そんな落ち着き払った兄王子の様子を前にして、アウロラはふと奇妙なことに思い至った。
「そういえばお兄様、なぜ東塔にいらしたの?」
テハイザからシレアに帰るなら、南から北上して城下に入るのが素直だし早道だ。東塔の立つ東から来る理由が分からないし、自分が塔にいたことに驚きもしないとは。
しかしアウロラが呈した疑問に、今度は兄王子が怪訝な顔をした。
「なぜって……アウロラが飛ばした報せにあったんじゃないか。いまなら賊が現行犯だからすぐ戻れ、ただし国には東から入れ、と」
だからテハイザ王直筆による極右派制圧の親書を受け取って来たのに——そう言って兄王子は懐から帆船の紋章が付いた書状を取り出すと、アウロラの方へひらひらと振って見せた。
全く覚えのない話の内容にアウロラの顔が固まる。しかし次の瞬間、アウロラは吹き出していた。
自分の代わりに手紙を飛ばしていたのが誰だったか、思い出したのだ。
前方から来る騎手の動きを注視しながら、シードゥスがウェスペルに顔を近づける。
「ウェスペルよく聞いて。もしあれを突破できなかったら、このまま一人でアウロラ様のところに行くんだ」
背中に接するシードゥスの体が熱く、夜の冷えた空気の中でその存在を強く感じる。
「少しだけでも相手を止めるくらいはできるから、その間に走れ。絶対に馬の首から体を離さないで」
「でも私、東塔の場所を知らないっ」
ああそうか、とシードゥスは上着の留め具を少し外すと、首にかけていたらしい何かを取り出した。
「この針を見て、矢印と直角の向きに進んで」
そう言ってウェスペルの首に掛けられた小さな円盤は、コンパスだった。文字盤に星辰が彫られている。滑らかなそれを手のひらに載せ、振り向いてシードゥスに確認する。
「真東、ね」
シードゥスが目を丸くした。
「知ってるのか、羅針盤。最近できた船乗りの必需品」
テハイザ以外の国にはほとんど伝わっていない発明なはずなんだけど、と声音に驚きが表れる。
ウェスペルの首元で弾むコンパスは、まだシードゥスの体温を帯びて温かい。そっと指で撫でる。途端に恐れが和らぎ、笑みがこぼれた。
「ありがとう。大丈夫な気がする」
すると次の刹那、ごく軽く、ウェスペルの額にシードゥスの唇がそっと触れた。
「もう、会えないかもしれない。でもどうか、無事で」
夜の海のような濃紺の瞳が、いままで見たどんな時よりも優しく、いままで見たどんな時よりも寂しそうに、静かに、だがまっすぐにこちらを見ていた。
咄嗟のことでウェスペルが仰天している間に、騎手が槍を高く掲げて間近まで迫ってきていた。シードゥスは即座に鋭い光を瞳に取り戻して姿勢を立て直し、手綱を捌いて相手の突きを二、三撃かわす。しかし二人乗りの分、どうしてもこちらの動きは鈍くなる。
馬は激しく左右に揺れ、振り落とされないよう掴まるだけで精一杯だ。シードゥスの汗がウェスペルの腕に落ちる。前方から攻めて来ていた相手が、横に並んで槍を振り上げた。
馬を走らせている間も白夜が終わる様子はなく、太陽が昇る気配もない。天空は色をわずかにでも変える兆しすら見せないままだ。
アウロラは地平線に引かれた紅の異様な美しさに背筋がぞっとし、恐怖を振り払おうと馬をさらに急かした。小川を飛び越え、馬の背で上体が大きく跳ねる。背中に担いだ袋の中で、祭器の鈴と鼓が弾んだ。
「まるで世界そのものが狂ったみたいだな。新月のはずだが、これで月まで出て来たら……時計だけでなく自然の秩序まで異常を来したっていうのか?」
四方を取り巻く情景に兄の言葉にも苛立ちが滲み出る。手綱に力を込めたアウロラの手元で腕時計が揺れた。時計台の文字盤に嵌まる宝石と似て、水晶石を中に秘めるという、ウェスペルから預かったもの。
その針はいまなお、アウロラの手にあって進むべき方向へ動いている。
荷物の中で祭器がぶつかり、鈴と鼓が小さく鳴る。
アウロラの頭の中で、何かが繋がった。
——時間。新月。舞拍子。
「色紅と金の地に……」
ふと口からこぼれる祭りの歌。
時計の停止。隣国との決裂。止まった流れ。眼球を焼く、地平線に引かれた光の線。
——月と太陽。潮の満ち引き。不和と友誼。混沌と秩序。そして……
自分とウェスペル。
脳裡に、一筋の光が瞬いた。
「お兄様、お願いがあります」
「ん?」
「先に城へ。私は、時計台へ行きます」
「時計台?」
「思いついたことがあるの。多分、全てうまく行くわ」
兄の美麗な面立ちに微笑が浮かぶ。
「アウロラの勘の良さは尋常じゃないからな——分かった。こちらは任せなさい」
健闘を、と眼差しを交わし、兄妹は城下の道を二手に別れた。
槍が頭に降りかかると思った瞬間、背後に風が通った。シードゥスが馬の背に手をついて宙に飛び上がったのだ。そのまましなやかに四肢を伸ばすと大きく脚を回転させて馬上の騎手を蹴り落とし、自分も馬を跳び離れる。
「そのまま行けっ!」
投げ出した肢体が地に落ちた音にウェスペルが振り返ったのを見て、声の限り叫ぶ。
——私が止まったら無駄になる。
唇を噛んで正面に向き直り、ウェスペルは駆け続ける馬の首にしがみついた。
——アウロラなら絶対に迷わない。
向かい風に耐え目を見開いて道を睨む。
泣くのは終わりだ。まだ、できることがある。
シードゥスが身を立て直す前に、眼前へ槍の先端が迫った。避けるには体勢が不利だ。
——ここまでか……
痛みに覚悟し、全身を硬くする。
その時だ。頭上に影が走り、来るはずの攻撃が止められた——鉄鍋で。
「この間抜け。囚われの令嬢の救出に丸腰で行く阿呆がおるか」
聞き慣れた太い声が上から降ってくる。見上げると、黒毛の馬の上から料理長が長剣を投げてよこした。
「……おやっさんこそ、剣どこだよ」
「わしはこいつが相棒だ」
盾がわりの鍋とは別の手に持った出刃包丁を掲げて見せ、ふぉーふぉーと得意気に笑う。実に愉快そうだ。
苦笑しつつ、受け取った剣を杖に立ち上がる。
——まったく。この国の人間はほんと、お人好しだ。
コンパスを見ながら東へ一直線に進む。道が直線状に延びた先には、厳かに天に向かって聳え立つ時計台。
途中、シューザリエ大河の橋を超えた。社で見た対流はいまや下流にまで及び、流れがぶつかり合って激しい水飛沫を上げている。
秩序という秩序が壊れているのか。
新月の空に月は無い。地平線から立ち上る暁紅の色は禍々しくも美しく、天頂から広がる紺碧の空を蝕んでいる。日が生まれるはずの暁と、月が姿を現わすはずの夜が、不完全に混在している。地上に連なる黄金色の木々から炎が生まれ出でるようだ。その色が文字盤に映って宝玉が閃く。
紅と、金と、その中を通る一筋の大河。
目に映る光景が呼び醒ます。ウェスペルの耳元に、あの祭りの歌が蘇った。
——もしかしたら。
馬が駆ける地面は舗装された石畳の街路に変わり、周囲が見覚えのある風景になる。二日前に荷車に乗って来た城下の道。このまま行けば時計台の立つ広場だ。
ウェスペルは確信した。
そこにアウロラがいる。