時の迷い路 第二十七話
第七章 亀裂(三)
ウェスペルは言われた通りアウロラの部屋へ戻ろうと廊下を歩いて行った。とはいえ城の中は広い。逐一方向を確認しつつ進んだのと、人の声にたびたび身を隠していたせいで、やっとのことでアウロラの自室へ着いたのはアウロラが戻るのとほぼ同時だった。重そうな書類を抱えた大臣と茶器を揃えたソナーレが一緒だ。
ウェスペルを認めて一番に口を開いたのは大臣だった。
「ウェスペル様、昨日より慌ただしくて申し訳ありませんな。アウロラ様と地下水脈の部屋は御覧になりましたね」
「はい。やっぱり水流の跡なんですね」
大臣は肯定も否定も口にせず、ただ小さく首を振る。
「水が流れていたのよ、今朝まで。あれが止まるなんて聞いたこともないわ」
ソナーレに渡された茶を一口飲み、アウロラは険しい目つきのまま両手に包んだ茶器の中を見つめた。
「いわばこの国のもう一つの神秘よ。時計台と共にずっとある。そもそも水脈が街の中をどう通って城の内部を流れていたのか分からないけれど、絶えず一定量で流れていたの」
「シューザリエ大河と源を同じくすると言い伝えられている水脈です。しかし地層調査などでも接続部は分からない。よほど深くを流れているのかもしれませんが、謎が多いのです。城の地下水に至っては、どんな日照りでも豪雨でも水量は変わらず」
大臣は持っていた書類をウェスペルとアウロラの前に置き、記録を示す。
「過去に極度の日照りによる水不足や、寒波で城下に敷いた水路の凍結が起こった時、この地下水のおかげで救われたという報告もあります。なにせ、どれほど汲み出しても変わらぬ水量……我々はそれを、国を守るものとして敬ってきたのです」
「国民の感謝の証として、シューザリエ川の山の入口――傾斜が増して森の奥へ入るところに社があるの。築いたのは三代目の王だと言うわ」
指で地図上の水色の線をなぞり、アウロラがトントン、と地図の緑色が濃くなった部分を叩く。そこから城下とは反対側に向かって緑色が濃くなっているので、その部分から高山部なのだろう。
「ここは湖?」
川を示す線の途中に、さくらんぼ大の水色の円がある。大臣が頷いた。
「湖、と言うほどの大きさはないかもしれませんが。観測池の機能もあります。一応、水不足や増水の被害を最小限にするため、池の水量を観測しています。前回の干魃は……」
大臣が書類を取り上げて頁をめくり出した時、部屋の扉が叩かれた。
「姫さま、料理長がメシ食ってないなら食事、持ってくかって……」
返事も待たずに入ってきたのはシードゥスで、大臣がいるのを見て「やべ」と言葉を切る。若者の無礼に眉根を寄せる大臣の口を、アウロラの返答が封じた。
「ありがとう、よろしく。でもその前に、頼まれごとしてくれない?」
「は? また?」
「地下水が止まったわ」
一瞬、面倒臭そうな顔をしたシードゥスの表情が凍り、一呼吸おいて濃紺の瞳が鋭利な光を宿す。
「殿下のところに、鷲を飛ばします」
言葉の響きは低く、一つ一つ確かめるように重い。
「さすがね。文の起草は……」
「代筆します。状況のみで殿下ならお分かりになるでしょう」
「ええ、十二分だわ。悪いけれど早急にお願い」
「御意」
言うが早いかシードゥスは部屋を飛び出し、廊下を駆ける足音が急速に小さくなっていく。アウロラと大臣はすぐに書類の検討を再開したが、ウェスペルはシードゥスが出て行った入り口からしばらく顔を逸らせなかった。刹那的に、最悪の事態に面したような苦痛の影を見た気がした。そして濃紺の瞳に走った実に冷ややかな光。ウェスペルと話していた時には全く見せなかった、ウェスペルの知らない彼の顔。
——きっと、地下水はそれだけかけがえのないものなんだわ。
心の底では何かそれ以上のものを感じながらも、ウェスペルは自分を納得させる。
「嫌になっちゃうわね。具体的に何か被害が出たわけでもないのに、こんなに不安になって焦るなんて」
肩を竦めるアウロラを大臣がすぐさま諭す。
「何をおっしゃいますか。一大事が二つも起きておりながら」
「でもいまのところ民に被害は出ていないわ」
窓の外を見上げながら、アウロラは頬杖をついた。
「お日様も上っているし、昨日の夜も星が綺麗だったし、もうすぐ一周忌だし、紅葉は綺麗だし、一体、何に怯えてるのかしらね」
「姫様、一周忌をもうすぐになさったのは貴女様ですよ」
ソナーレが釘を刺す。そのやりとりを聞きながら、ウェスペルはアウロラの言葉に頷いてしまった。時計さえなければ時間に縛られる必要なんてあるだろうか。時間をそこまで気にするだろうか。針の動きに私たちが動かされてしまっていないか。もう一つの地下水のことはよく分からないが、そちらだって大河に何かが起きたわけでもなさそうだし。石や何かで水流が塞がれてしまったのかもしれないし。
そんなことより、秋風が気持ちよくて、スープの南瓜や人参は美味しくて、肌寒い夜に毛布が暖かかった。街は活気づいていて、出会った人たちの優しさが疲れた四肢の緊張をほぐしてくれる。そちらの方がよほど大事な気がするのに。
窓の外に鳥が飛んで行った。かなり上空まで急速に飛翔していく。
「あら、二羽?」
ソナーレが首を傾げる。
「お兄様のところと、地方へ向かわせた官吏にでしょう。やっぱりシードゥスに頼んでよかった。気が利く」
「あの青年は礼儀こそ叩き込みたいが、仕事は相変わらず早いですな」
四つの翼はどんどん小さくなっていく。本当に、何を慌てるのだろう。空は青くて、城を囲む色づいた木々が目に眩しくて、庭の噴水では水面を照らす光が反射して煌めいているのに。
でも何故だろう。そこはかとない不安がじわじわと波紋を広げていくのは。そしてそれがウェスペルの意識の深いところにも侵食してくる気がするのは。
「お兄様へ連絡がついたらきっとすぐお戻りになるわ。できることからやりましょう。豊穣祭も一周忌も、いまの異常事態のせいで準備が手落ちになったら、それこそ国の体面が崩れて危険だもの」
アウロラは姿勢を正し、書類束を持ち上げる。
「私にも何か、やらせて」
ついウェスペルは名乗りを挙げていた。一瞬、アウロラが眼を丸く見開いて瞬きをしたが、すぐに笑みの形に崩れる。
「ありがとう。うん、お言葉に甘えようかな」
民の前に厳かに立った姿からは想像できない、自分とどこも変わらぬ少女は、ちょっと照れ臭そうにウェスペルに向かってはにかんだ。
紅葉が風に揺れるような、優しい瞳で。