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時の迷い路 第三十四話

第九章 激流(四)

 社へ続くという道は、石畳の街道の途中から草土の混じる林道になった。左右には民家がまばらに建ち、シードゥスによれば林業を営む者の住居だと言う。
 馬車に乗ったままでは林の奥まで進めない。ウェスペルとシードゥスは林の少し手前で馬車を降りた。二人を乗せてくれた騎手と馬はそばの民家に頼んで待たせてもらうようにし、そこから先はウェスペルとシードゥスだけ徒歩で進んだ。
 平坦だった道は次第に傾斜がついてきて、周りには丈高い木々が増えていく。羽織る上着が邪魔に思えるくらい体は温まり、木々の間を通って頬を冷やす風がむしろ気持ち良い。
「たいした道じゃないよ。池はまだ先だけど、社はもう少しだ」
 シードゥスは慣れたもので、地面の石や泥土を難なく避け、舗装道路を行くのと変わらぬ速さですたすた歩いていく。
「……何でそんなに、身軽なの?」
 ウェスペルも体力には自信があったが、シードゥスの歩調について行くのはやや辛い。姿勢を崩さず前方を歩く青年は、へたれた声に足を止めた。
「あ、ごめん……女の子だもんな」
「う、こっちこそごめん、早く帰らなきゃなのに」
 明日が一周忌だから、早く城に戻って残りの準備も手伝いたいのに。
 やるせなさにどうしても声が小さくなっていってしまう。上がった息をなんとか整えるのにしばらくかかる。情けない返事にどんな呆れた反応があるだろう。
 ところが、シードゥスが口にしたのは全く別のことだった。
「ウェスペルはさ、どこから来て、どこへ行くの?」
「どこ、から……」
 踏み出そうとしていたウェスペルの足が、その場で止まった。
 それは、どこかで目を背けようとしていた問い。城に来て、城の仕事を手伝うなかで、心の隅でこの世界の者ではないことを忘れようとしてはいなかったか。
 自分がいたところはここから見て、一体「どこ」なのか。「いつ」なのか。いたところに、いた「時」に、帰れるのか。
 突き上げる不安は、喉を塞ぐ。
 ようやく規則正しくなったはずの呼吸が途切れる。
 失ったあとに、自分の周りに当然のごとくあった秩序に気付いた。
 そして、この国に当たり前のようにあった秩序に揺らぎをもたらす存在ものは。
 この国は時計台が止まって、地下水が止まった。たとえウェスペルにとってはそれらが絶えず動き続けること自体が非現実的だと思えても、この国にとってはそれらが止まったことの方が異常なのだという。連綿と続く律動に生じた正体のわからぬ軋み。
 しかし何が一番異常かと言われたら、自分ではないのか。
 いるはずもない存在がこの国に踏み込んだ。起こり得ないはずの時と空間の超越が、別の時と空間の存在ものをこの国に混ざり込ませた。もしかしたら、それが自分ではないのか。
 いつまでこの国にいるのか。
 アウロラはいつまで、自分を居させてくれるのか。
 王女と姿形そっくりでも、明らかによそ者で、完全に異質な存在を。
「国の人じゃない部外者が、迷惑、だよね」
 自分が発しているはずなのに、その声は耳に遠い。アウロラとは真逆の後ろ向きな考えに、シードゥスがどんなに失望していることか。
 だが返ってきたのは、強く、よりはっきりした声。
「いや」
 短い答えにびくりと肩が上がった。きっと表向きだけの否定か。こわごわ顔を上げる。しかしウェスペルの視線とぶつかった瞳には、軽蔑も憐れみもなかった。
「面倒ごとに、巻き込まれて欲しくなくてさ」
 柔らかな語調と面差しに気遣いと優しさが表れて、ウェスペルは自分を迎え入れてくれた彼らに不安を抱いた自分を恥じた。
 しかしそれだけではなかった。シードゥスの瞳はどこか遠くに思いを馳せ、何かを願うようだ。この目はウェスペルの記憶にある。一緒に城まで帰って来るとき、祭りについて話した時。あの時のシードゥスの瞳も同じだった。憧憬と、哀しさが混じっていた。
「一緒にいられた時間、短いなって」
 ひとひらの葉が落ちて地面の紅葉に音もなく重なる。シードゥスの言葉はそれと似ていた。
 どういう意味だろう。特別な意味なんてないのかもしれない。でもウェスペルには十分だった。自分の中の気持ちの変化が気恥ずかしくて、急いでお礼を言って、シードゥスの立つ位置まで小走りに駆け上がる。
「それにしても、社って結構遠いんだね? 川を離れてずいぶんになる気がする」
 話題を逸らそうと、ウェスペルはふと思いついた疑問を口にしてみた。最後に川を見たのは馬車に乗っている間のことで、道はそこから川を離れて木々が茂る方へと進み、長くせせらぎの音も聞いていない。しかしそもそも社が立つのは山の入り口と言っていなかったか。
「川沿いをまっすぐ行くのは無理だ。川の方が崖になってるから、多分危なくて道が作れないんだろ。それに直線距離で行けるこっちの道の方が早い」
 シードゥスは頭の中に国の地図がすっかり入っているらしく、河川沿いの切り立った地形と左右の土手との高低差、高山から海までの川の蛇行具合を解説する。彼の話し振りは写真を見ているのと同じくらい具体的で、頭に土地の光景がすんなり浮かんでくるほどだ。
「祭りの舞は川への感謝でもあるな。この国の林業や農業がもっているのはひとえに川から手に入る水の恵みが豊かだからだ」
 豊穣祭は天の恵みと地の恵み、国を守る時計と、もしかしたら民を見守っているのかもしれないと囁かれている存在——妖精——それら全てに対し、謝意と変わりない誠意を伝え、敬意を失わぬよう心に戒める祭りだと、シードゥスは説明する。
「お祭りのあの歌、歌える?」
 祭りの話が出たら、街で、城で歌われた歌が思い出された。何度でも聴きたくなる歌だった。魅惑的な音、なぜか耳を掴んで離さない、不思議な調べ。
「え、僕が歌うの?」
「うん、覚える。覚えたい」
 うーん、とシードゥスはしばらくためらっていたが、ウェスペルが重ねて頼むと観念して旋律を息に乗せはじめる。


 いろくれないと金の地に
 みそぎそそげよ 秘せしかわ
 刻み記せよ 我が命
 つづみ鳴らして この御代みよ


 歌い出しは小さかった声が、少しずつ大きくなり、よりはっきりと律動を刻む。
「二番も?」
 こくり、とウェスペルが頷くと、今度はそこまで渋ることなく歌声が続いた。普段の話し声よりかすかに低く、空気を通って意外にもよく響く、朗々とした音。


 あめつち赦せ この逢瀬
 禁じられたる 交わりを
 止めて 流れよ うつし世に
 されば始まる 月日あれ

 あまねく時が 集まりて
 光 暗闇 無に返れ
 刻め 定めよ 始まりを
 御霊みたま 惹かれて 紡ぎゆけ


 途中からウェスペルもシードゥスに合わせて音を出してみる。旋律は起伏が緩やかで歌いやすく、律動は呼吸に合って息を続かせる。シードゥスは隣で歌う声が迷うと、少し速度を落とし、ウェスペルを導くように歌った。
 低い歌声に合わせて、やや高い音がいく度も同じ調べを繰り返す。しばらくそうしていたらウェスペルもだいぶシードゥスの調子に合わせられるようになってきた。
「覚えた?」
「もう少し、かな」
 木立を通り穏やかに吹く風に混じって、鳥の声も聞こえる。二人と一緒に歌うように。
 小半時くらいか、そうして歌いながら木々の間を歩いた。ウェスペルももう歌詞はすっかり覚えてしまい、旋律も止まらずに吟じられるようになってきた頃だった。前方に茂る葉が裂けて開け、視界に陽が射し込んで一面が白くぼうっと光っているところが見えた。
「着いたよ。社だ」
 シードゥスが伸ばした指の先を辿ると、白い光の中に弓形を成す白亜の門が見えた。
 その向こうに川が見える——説明するシードゥスの脇をすり抜けてウェスペルは門の方へ駆ける。光の輪の中、陽光に白く輝く門の下に飛び込み、その先にあるはずの川の流れを見ようと身を乗り出した。
「うそ……」
 目の前に広がった光景は、ウェスペルの知る川という概念を遥かに逸していた。
 流れは一つではない。岩土の裂け目から、間隔をあけて四筋の細い水脈が流れ出し、一つの束となって下流へ落ちていた。

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