時の迷い路 第三十話
第八章 渦中(三)
明るい声が遠くへ消えると、ソナーレは改まってウェスペルに頭を下げた。
「ありがとうございます、ウェスペル様。アウロラ様の代わりに御礼申し上げますわ」
「そんな、やめてください。だって神聖なものじゃないんですか? 私、この髪飾りも本当はつけちゃいけないのでは……」
ソナーレは微笑んで首を振る。
「そちらはアウロラ様が毎年おつけになっていたものだから良いのです。耳飾りと合わせた衣装には違いありませんが。耳飾りは、歴代の女王や王妃、つまり為政者になる王族の女性が身に着けるもの。今年初めて、アウロラ様がお召しになる記念の品ですから」
まるで大事な妹を思うような優しい口ぶりに、やはり断って良かったとウェスペルはほっとした。アウロラのために守れたものがある――自分に向けられた感謝の言葉に頬が熱を帯びる。
「あ、まだいた良かった。似合うじゃん」
背後を振り返ると、知らぬ間にシードゥスの姿が扉のところにあった。床を埋める衣装箱を器用によけながら部屋に入ってくる。
「あら、他の仕事は終わったの?」
「うん、姫さまんとこ寄ってきた。で、こっち手伝おうと思って」
「こちらも一息つきそうだから、お茶飲みながら進めましょう。待っててね」
上品な笑みを湛えつつも含みのある視線を寄越して、ソナーレは「ごゆっくり」と廊下へ消えていった。シードゥスは首を傾げて彼女を見送ると、ウェスペルを頭から足先まで眺める。
「綺麗な色だね、これ。なんの素材か分からないけど」
妙に照れ臭く、ウェスペルはどぎまぎしながら当たり障りのない話題を探した。
「うん、何度見ても飽きないだろうなって思う。貝殻のきらきらしたとこと同じ。僕あれ好きなんだよね。あとその珊瑚礁の海の色も。あの色ってさ、いくらでも見ていられる」
シードゥスが髪飾りに付いた碧玉を指す。
「見たことあるの? 珊瑚礁の海」
自分の記憶にあるのは遠い昔、家族で旅行に行った時のものだ。白い砂と吸い込まれそうな碧が太陽を浴びて宝石のように煌めく様子に、言葉を失ったのを覚えている。シードゥスも家族にこの国からは遠く離れた海へ連れて行ってもらったのだろうか。
思った通りに訊ねると、さりげなく目が逸らされた。
「僕、ここに家族、いないからさ」
シードゥスの返事には感情がなかった。
「ご実家は遠いの?」
「家は……って、いうか。親は……いないから」
「あ……ご、ごめんなさいっ!」
知らなかったとはとはいえあまりに酷い質問だ。謝って済む内容ではない。
自分の口を塞いでやりたいと、後悔に潰れそうな想いでウェスペルは謝罪を重ねたが、シードゥスは「気にしなくていいよ」と軽く流して床に散らばった衣服を拾い上げ始めた。
「ごめんなさい……ただ、海に行ったことがあるみたいに聞こえて……」
まだ失言が悔やまれ、ウェスペルは無駄と思いながらも弁解を続けてしまう。床に向いたシードゥスの表情は読めないが、自嘲的な笑いが小さく漏れたように聞こえた。
「さて、片付け終わらしちゃおう」
ウェスペルの言葉には何も言わず、次に顔を上げた時のシードゥスは今までにも見たさっぱりした様子だった。もうこれ以上、この話は続けないほうがいいのかも——謝り足りない気持ちを燻らせながらも、ウェスペルも腰を下ろして布を手に取る。
「しかし衣装多いな。二人でやれば終わるだろうけど」
シードゥスの口調がいつも通りに戻っている。気まずい雰囲気が続くのはウェスペルだって怖い。きっと向こうも普通にして欲しいのだ。
「あの、アウロラの方は順調に進んでる?」
なるべくこちらも普段通りに、とウェスペルは切り出した。
「ぼちぼち。姫さまは明日、外の方に確認に出るよ」
「時計台や水脈の異常とかは?」
「変化も進展もなし」
解決していないのか。あれだけ疲労して頭を抱えているアウロラを見ていると、何でもいいからしてあげたいのに、自分にはこうして雑用を手伝うくらいしか思いつかないのが歯痒い。
「なぁ、水なんだけど」
黙々と作業を続ける中、突然シードゥスが手を止めてウェスペルを見つめた。
「地下水の様子だけ見てても仕方ないんじゃないか。大河と繋がってるかもしれないなら、そっちまで調べないと」
「そうだねぇ……」
大河の水脈と繋がっている可能性があるなら、河川の方に異常がないかも確認する必要がある。地下水脈の停止は確かに気がかりだが、日常生活や農作業には大河そのものとその支流から水をとっているのだから、そちらに異変が起こらないようにする方が重大だろうとシードゥスは説明する。時計台の方はウェスペルの腕時計のおかげで急場凌ぎの代替策が取れてはいるが、大河に異事が出たらそれこそ国民の生活が破綻してしまう。
「だからさ、確かめに行くべきだと思わないか」
「確かめるって?」
「だから、観測池。もしくは少なくとも河が山から出てる社まで。時計台にしろ、地下水にしろ、国の宝がやられてきてるだろ。社だって似たようなものじゃないか」
言われてみれば道理である。警戒を張っておくに越したことはない。
「確かにそうかも。それにもし、万が一にも池の方の水まで減っていたりとかしたら早めに策を取るべきよね」
シードゥスは頷いた。
「じゃあ許可取ってくる」
「へ? なんの?」
咄嗟には理解できないでいると、シードゥスは持っていた衣装を床に放り捨てて立ち上がった。
「行くんだろ? 社まで。だから取ってくる。僕とウェスペルの外出許可」