時の迷い路 第二十四話
第六章 小憩(四)
部屋に射し込む陽光の明るさを感じて目が覚める。眩しさに半分ほど瞼を開けてみると、ウェスペルの隣にアウロラはいなかった。
布団から出て窓を開ければ、頬にひやりとした風が当たって深まる秋を知らせる。外には美しい紅葉に彩られた道が見え、その先に建物の屋根が連なっている。きっと昨日、城下町から来た道なのだろう。丈高い時計台も街の中心に見つけられた。その文字盤は、朝陽を返して昨日見た時よりもいっそう眩しく光っている。
何事も起こらなかったと間違えそうな、静かな朝だ。
見渡す限り鮮やかな色が広がる美しい情景に見入っていると、背後でとん、とん、とゆっくり扉を叩く音がした。そして「失礼します」と言う落ち着いた女性の声とともに戸が開かれた。
「おはようございます。御召し物をお持ちしました」
入って来たのはすらりとした細身の若い女性だった。明るい茶色の髪の毛を後ろで一つのお団子に纏め、襟首と裾が控えめ程度に襞で飾られた、灰青色に近い膝丈の衣装を着ている。
「よくお眠りになれましたか? 私はアウロラ様付きの者で、ソナーレと言います。ウェスペル様の今日のお世話を仰せつかっております」
若いとはいえ自分より一回りほど歳上に見える女性にこんなにも丁寧な対応をされて、ウェスペルはなんとも居心地が悪くなった。
「あっありがとうございます、お邪魔してます。もう本当にお構いなく……」
「そういうわけには参りません。御召し換えのお手伝いを致します」
言うが早いか、ソナーレは手に持った服を広げ、ウェスペルの寝間着を脱がせようと申し出る。ウェスペルはさすがに戸惑って丁重に辞退し、人前で恥ずかしく思いながらもいそいそと着替え始めた。持って来てもらった衣装に袖を通すと、滑らかで肌に吸いつく。絹だろうか。
背中の留め具を付けるのだけソナーレに頼んで鏡を向く。映ったのはまさか想像もしない姿の自分である。着替えた服は朝の空を映したような薄い水色で、銀糸の刺繍が裾と襟元に施されており、その見事な模様のところどころに紺碧の小さな宝玉が散りばめられている。袖は肘のところで、胴衣は腰でそれぞれ細く窄まってからゆるやかに膨らみ、動いたらふわりと広がりそうだ。
「あぁ、本当にアウロラ様と同じ寸法ですわね。お似合いになる御召し物の型も同じ」
確かにアウロラの着ていたのも似た作りで、彼女の方はもう少し明るめの秋桜色だった。見慣れぬ自身の姿に茫然としているウェスペルには構わず、ソナーレはてきぱきとウェスペルの髪の毛を編み込み結い上げていく。あれよあれよという間に、ウェスペルの頭には服の宝玉と同じ色の刺繍が入った白のリボンが結ばれ、これまで見たこともない令嬢の姿が鏡を前に座っていた。
「さあ、御食事にいたしましょう。お部屋で取られますか、それとも食事の間に参りますか? この時間ならお連れしても構わないと、アウロラ様から言付かっておりますが」
ウェスペルの答えはすぐに出た。アウロラが部屋に一緒にいるならまだしも、一人で食事をするほど寂しいことはない。
ソナーレに案内されて食事の間に向かうと、そこはあまり広い部屋ではなく、城勤めの中でも下働きの者が集まるところだと思われた。入ってすぐに声をかけてきたのは、白い調理着を着た初老の男性である。
「おう、来たなあ、待っておったよ。アウロラ様の頼みじゃが、そうでなくともわしの味を口にせんままこの城からは帰さぬ」
「料理長、お味の素晴らしさは召し上がれば分かりますから、早く持っていらしてくださいな」
ソナーレに催促され、料理長は「やれやれどっこいしょ」と腰を上げて奥の間へ去っていった。恐らく調理場に繋がっているのだろう。布の敷かれた食卓の前で待っていると、ほどなくして湯気の立つ皿やら水差しやらを載せた盆を片手に料理長が戻って来た。
「食材が足りないとて、わしの料理に支障はない。秋の朝飯なら暖かいものは必須じゃよ」
言う間にウェスペルの目の前に、色とりどりの野菜が入った汁椀と、何かを挟んで焼いたらしいパン、果汁が弾けんばかりの大きな葡萄や蜜がたっぷりの林檎を載せた小鉢が置かれる。その間にソナーレはウェスペルの膝に白い布をかけ、両脇に銀器を並べていった。
「あら料理長、このお野菜、可愛らしいですわね」
汁椀の中の人参は紅葉、芋は銀杏の葉、大根らしきものは花の形になっている。「アウロラ様の御歳の女子に出すんじゃから」と、料理長は自慢気だ。大きな木の匙でひと匙汁を口に運ぶと、野菜の旨味が口いっぱいに広がる。賽の目に切って炒められた肉の燻製が風味を足していて、そのほのかな塩気が人参や芋の甘みを一層引き立てる。
感動して美味と礼を伝えると、料理長は本気一割だと謙遜しながらも顔には満面の笑みを浮かべた。
一口一口に喜びつつはぐはぐと食べていると、ウェスペルたちが入って来た扉からもう一人、食事にやって来たようだ。昨晩すでに聞いた声が背後で情けない溜息を吐き出す。
「はー朝から疲れた……おやっさん、メシ……」
反射的に振り返ったウェスペルは、開けた扉に手をついてこちらに懇願するシードゥスと目が合ってしまった。昨日の今日だ。思わずパンを千切る手が止まる。
「小坊主、男が恥ずかしい声出すな。精つけろや」
ぶっきらぼうな声が飛んでくると同時に、シードゥスの顔は調理場に消える料理長の方に向けられた。その背に礼を言い、すたすた食卓へ近づいてウェスペルの対面の椅子を引く。一見するところ疲れ以外の何の感情も見えない。いたって普通だ。彼と目が合ったと思ったのは気のせいだったのだろうか。
しかしシードゥスが腰掛けて顔を上げたとき、またもウェスペルの視線と視線がぶつかった。
——いけない。見過ぎてたかも。
相手の顔が固まったように見えて、慌ててウェスペルは視線を皿に戻そうとした。それなのに、うまく首が動いてくれない。
ただ互いの動きが止まったと思ったのも束の間だった。すぐにシードゥスの目が細められ、気遣わしげに尋ねる。
「おはよう。寝れた? 快適?」
「う、うん。疲れてたのかぐっすり。朝はアウロラに会えなかったけど、ソナーレさんが来てくれたし。服まで貸してもらっちゃったり至れり尽くせり」
シードゥスの声からは本気で心配してくれているのが分かって、なぜかウェスペルの体が瞬く間に熱くなった。自分で自分の反応の訳がわからず、動揺を隠そうとしたら早口になってしまう。
「そう。なら良かった」
ほっと息をつき、心底安心したようにシードゥスは顔をほころばせた。柔らかな笑顔を向けられてウェスペルは今度こそ俯いてしまう。
するとソナーレが横からシードゥスにも布巾を渡し、水と匙を卓に置きながら食卓の二人の顔を交互に覗く。
「シードゥスとはもうお会いでしたか。どう、シードゥス。ウェスペル様もアウロラ様と同じようにドレスがお似合いでしょう?」
「そそ、そんなことないです、こんなの着たことないし、アウロラみたいに着こなせてないし……アウロラとは全然違いますって!」
褒められ慣れていないうえに、正直なところドレスなど身の丈に余ると思っていたので慌てた。顔がたちどころに熱くなる。なにせ動揺むき出しの自分をシードゥスがまじまじと見ているのだ。
「そうだよソナーレ。姫さまとは違うだろ」
自分を眺めながら言われた言葉に、「あぁやっぱり似合ってないよね」と今度は落胆してしまう。そして無意識のうちになかば期待していたのが分かってさらに戸惑う。ところがシードゥスは馬鹿にする様子もなく、ウェスペルをしげしげ観察して続けた。
「姫さまは、あれはそれで良いかもしれないけど。ウェスペルは顔そっくりだけどなんか違うじゃない」
「あらシードゥス。『なんか』って具体的にはどこが姫様と違ってらっしゃるの?」
「いや、なんていうか、雰囲気? 例えば……姫さまには多分、このドレスの色はここまで似合うかな。姫さまとはどこか別で……うまく言えないけど、ウェスペルはウェスペルで綺麗だよ」
ウェスペルは恥ずかしさに耐えられず首をソナーレの方に回していたが、耳に入ってきた言葉にみるみる顔が火照って、ますます頭の向きを動かせなくなった。そんな彼女を見るソナーレの口調にいたずらっぽい含みが混じる。
「シードゥスったら。意外に見る目があるみたいねえ」
「え? だって、そう思ったし」
ウェスペルは横目でシードゥスを盗み見て、短く答える彼の顔に少し朱が混じったような気がしてしまった。
——もう……多分、意識のしすぎ。
何か思って言っているのか、天然なのか、分からない。こっちの平穏が掻き回されてばかりで、胸の鼓動が早くて頭が休む暇もない。
恥ずかしさで顔も上げられず、ウェスペルは汁物を冷ますふりをして俯いた。だがそれはそれでシードゥスの様子が分からず、会話がないままこの状況が続くのも辛い。
すると、すぐそばでことん、という音がする。
「こら小坊主、たんと食え」
反射的に顔を上げると、料理長が卓上に皿を置いたところだった。助かった。シードゥスも食べる方に注力しはじめたので、ほっと肩の力を抜く。
「それにしてもずいぶんな疲れっぷりじゃな。どうした」
「豊穣祭が近いのに、一周忌の式典が割り込んだから、んぐ、準備に大荒れなんだよ」
咀嚼するのをやめず、野菜を飲み込みつつ、シードゥスが愚痴る。二人の会話にある「豊穣祭」という名前はウェスペルにも聞き覚えがあった。
「そのお祭り、街に来る途中でお聞きしました。歌があるのですよね、確か……」
城下まで送ってくれた主人が歌った歌。道を走る子供達も口ずさんでいた歌だ。何度も聞いたので少しなら覚えていたため、さわりだけ口に出してみる。
「おや、その歌には続きもあるが、一番しか聞いとらんか」
材木屋の主人が歌ってくれたのはそこまで長くない。首を振ると、料理長がソナーレに目で合図する。するとソナーレははにかんでから、細く高い声で調べを紡ぎ出した。
色紅と金の地に
禊ぎ注げよ 秘せし河
刻み記せよ 我が命
鼓鳴らして この御代を
あめつち赦せ この逢瀬
禁じられたる 交わりを
止めて 流れよ うつし世に
されば始まる 月日あれ
あまねく時が 集まりて
光 暗闇 無に返れ
刻め 定めよ 始まりを
御霊 惹かれて 紡ぎゆけ
初めは気恥ずかしげに遠慮がちだった声は、最後の節では朗々となっていく。料理長は始終笑みを浮かべつつ、口の形は歌詞をなぞり、手は膝を叩いて拍子を刻んでいた。シードゥスは頬杖をつき、神妙な面持ちで聞き入っている。
最後の句を歌い上げたソナーレは、うっとりと息を吐いた。
「素敵ですわねぇ。恋人同士がやっと出会える、そんな歌だと思いますわ」
「歌い継がれてきた祭りの歌じゃ。女神と男神の逢瀬かもしれん」
「恋歌かどうかはどうでも良いけどさ、その歌と一緒の舞は良いよね。鼓が叩かれて皆で舞うやつ。子供達も可愛いし」
歳上二人の意見に対し、若者の方が情緒の無い感想を述べる。でも、どちらの意見もウェスペルには頷けた。もし歌詞の中身が恋人同士の出逢いを指すなら、年頃のウェスペルも憧れる。一方で料理長が刻む拍子を聞けば、舞そのものもきっと魅力的だろうと想像できた。その拍子はかなり複雑な変化を含みながらも規則性を失わず、聴くものを引き込んで同調させてしまうような不思議な力があった。何人もが一斉に刻んだら、それは見事な律動になるだろう。
「私も見てみたいなぁ」
祭りまでいるというのは、自分が元々いた場所に帰れないということだ。しかしこんなにも人々が待ち望む祭りは、帰りのことなど一瞬でも忘れてしまうほどウェスペルの興味を掻き立てた。何よりシードゥスも昨晩、城への道すがら見事と言っていたし、アウロラも舞に参加するというし。
「祭りの時には屋台がどの道にもたくさん並ぶのですよ」
「普段食べてるのより美味しい気がする。料理人たちも気合い入れてんのかな」
「そりゃそうだろう。子供達の笑い顔は当然、普段は仏頂面しとる大人などの喜ぶ顔を見るのは嬉しいもんじゃて」
「仏頂面はおやっさんだろ」
けして贅沢ではないが滋養と美味あふれる食事の卓で、祭りの話に華が咲く。城勤めの面々も緊急事態の中での束の間の休息を楽しんでいるのだろう。ウェスペルも、皆がよそよそしくせずに自然に接してくれるので、時折口を挟みつつ、彼らの談義に熱心に耳を傾けた。
四人がようやく緊張感を取り戻したのは、食事の間に厳しい顔をした大臣が姿を現した時だった。