天空の標 第二十九話
第十章 凶兆(二)
顔に焦りを露わにして姿を見せたロスの手の内に、カエルムは筒状に巻かれた書簡をみとめた。指の隙間から垂れる紅葉色の組紐。ロスが何か言いかけて口を開いたのを、小さく首を振って制する。
「あ、ロス様ももう、見るところは終わりましたか」
クルックスはカエルムの仕草には気がつかなかった様子だ。勘ぐる様子はない。ただ屈託なくロスに声を掛けた。会話の口火が向こうから切られたのを幸いに、ロスは書簡を胸の前に出して存在を知らしめる。
「スピカのおかげで。それより、国から書簡が来ています。急ぎこちらを殿下に読んでいただかなくては」
「私の部屋も遠くはないが、この位置だと……」
「自分の部屋の方が近いです。従者である私の部屋に殿下をお連れするのを、咎めることもないでしょう? この城、広くてさすがに脚も疲れてきてますし、早めに腰を落ち着けたいので」
シレア城の若干名以外がロスを見たなら、主人の前で休息を願い出るなど全く迂闊な輩だと呆れただろう。しかし普段、特に外交の場において、ロスがカエルムのいる前で第三者相手に主人をおいて自分の意見を表明することは滅多にない。そのロスが自ら提案するあたり、相当逼迫した状況であることはカエルムには明白だった。暢気な希望に聞こえるのは、あくまで他国の城にいる以上、詳細を口にできない事情があるのだ
「それは構わないと思いますけれど。ではロス様のお部屋までお送りしましょうか」
「いえ、それは……」
ロスが言い淀んでいる間にスピカがクルックスに走り寄り、袖を引っ張った。クルックスが膝を折ってスピカと身長を合わせてやると、クルックスの耳元にスピカが何か囁く。するとすぐに青年が姿勢を戻してカエルムたちに向き直る。
「分かりました。では、後でお部屋の方へ夕餉の頃に伺います。私たちも夕刻の仕事を済まさねばなりませんので」
型どおりに、だがこれまで見せたときよりも心持ち速い礼をとると、クルックスはスピカの肩を押して回れ右させ、二人を残してロスの部屋とは反対方向へ歩き出した。去っていく後ろ姿を見つめて、カエルムの蘇芳色の瞳が鋭く光る。
「気づいたか」
人のいない廊下で話し声はよく響く。カエルムは二人の足音がほとんど聞こえなくなってから囁いた。
「ええ」
ごく一瞬だった。瞬きほどもない。クルックスの眼に驚愕が走り、歯を食いしばるように下瞼が歪められたのは確かだった。スピカが何かを言った直後だ。
「あの二人は問題ないと思っているが。何かしら隠し事があるらしいな。警戒するに越したことはないが……まず、書簡の話から聞こうか」
***
肖像画の並ぶ部屋から二つ曲がった廊下の並びに、ロスの居室が用意されていた。扉の上の絵画は渡り鳥と、安息を意味する瑠璃萵苣の花。もとより客間のために誂えられた部屋か。
室内はカエルムの居室よりやや狭い。だがそれでも、寝台脇の小卓のほかに、部屋の中央には食事を取るのに十分な大きさの円卓と背もたれを持つゆったりした椅子が二脚ある。
中に入り扉をしかと閉めると、ロスは手の内にある書簡を主人に渡した。受け取るや、カエルムは立ったままで筒状の羊皮紙に巻かれた組み紐を解く。瞳だけが文面を追って動き、ある一点で止まった。
しばらく黙したまま書簡を見ていたカエルムが、息を吐きながらゆっくりと腰を下ろした。
「シレアの、地下水にまで変事が起きるとはな……」
シレアの地下水——それは王城地下の一室に古くから存在すると伝えられている湧水である。岩で囲まれた冷えた空間で、絶えず細い水が岩の間から流れ出て部屋の中に池を作っている。その量は天候やシューザリエ川の水量に左右されることはなく、常に一定で、増えることも減ることもない。温度すら変わらず、軒先に氷柱のできる厳冬にも凍ることがなく、夏には外気の暑さに疲れた手を癒す。この不思議な、あたかも貯水池のような部屋を誰がいつ作ったのかは、時計台と同じくいかなる書物にも綴られておらず、口承ですら伝えられていない。
その一定不変たるシレアの地下水までも、流れを止めた——そう、王女からの伝達には書いてあったのだ。