
私にとっての小さなはじまり
この記事は小さなはじまりマガジンのテーマに沿って作成しています。
"チームで何かを作り上げる"
昔から、このことへの苦手意識が強い。
そんな私が3月に開催されるグループ展に参加する。私にとっての小さなはじまりとは。今まであまり表現してこなかった思いを言葉にしたい。
きっかけ
昨年からコーチングを受けている。あるときコーチの翠さんに、展覧会への出展のお誘いをいただいた。やったことがないことに挑戦し、新たな自分を発見したい。そんな思いからチャレンジすることにしたのだが、そこから徐々に、チームで何かを作り上げるということに挑んでみたい気持ちが強くなり、運営に参加することにした。この運営への参加こそが、私にとっての小さなはじまりなのである。
苦手意識の背景
とはいえ、チームで何かを作り上げた経験はこれまでに何度もある。中学時代は生徒会長、吹奏楽部の部長、体育祭の副団長など、気がつくとチームをまとめる立場になることが多かった。高校、大学時代も野球部のマネージャーとして団体の中にいたし、大学院でもなぜかよくチームのリーダーの立場となった。でも、いつだって私は、その楽しさを存分に感じることができなかった。当時を共に過ごした人がもし読んでいた場合に誤解させてしまわぬようちゃんと説明しておきたいのだが、全く楽しくなかったというわけではない。でもずっとずっと引っかかっていた。
誰かの笑顔の裏には誰かの悲しみがある。
全員が本当に納得している状況なんてない。
今、自分の本当の思いを言えずにいる人がこのチーム内にいるに違いない。
全員で何かを作り上げ、それを成功だと決めつけて喜ぶだなんて、傷ついているかもしれない誰かを置いてけぼりにしている。
成功だと喜んでいるのは自分の思い通りになった人たちだけ。
そうじゃなかった人の気持ちは無視されるのか。
いつだってそう思っていた私は、チームでの活動を心から楽しむことができなくなっていた。
こう考えるようになった最初の記憶を思い返したい。印象的なのは中学生の頃。私は(実際はそんなことないのだが)いわゆる優等生的な立ち位置だった。クラスで何かを決めるとき、意見を聞かれて答えると「じゃあそれにしよう」と決まってしまったことがあった。本当にそれが良い意見だったのかはわからない。でも「絶対に納得していない人がいる」。そう思ったのに、多数決で私の意見に決まった。このときだけではない。もしかしたらもっと幼い頃からかもしれないし、小学生の頃、私の不登校がきっかけで家族が離れ離れになったことも関係しているかもしれない。とにかく、私が何か意見してその方向で話が進んでしまうこと。それがものすごく怖くて、もっとみんなの意見を聞きたくて、でもどうしようもないという状況をいつも感じていた。もちろん自分以外の意見が通ることもいくらでもあったと思うが、自分の意見が採用されることに対して、すごく怖いというか、申し訳ないというか、誰かを傷つけているという罪悪感があった。誰一人我慢しないで何かを作り上げることなんて無理だから、そんなことには最初から参加したくないという気持ちが強くなっていったと思う。
自分がすごく傷ついたこともある。あるときネット上に名指しで「調子乗ってる」と書かれた。5年後くらいにもネットで、全く別のコミュニティの人たちから「あいつライングループから退会させろよ笑」と知らぬ間に言われていた。直接そういった類のことを言われたこともある。そうなった原因は共通していて、私が"チームの為に"と思って発言したことだった。
世の中に正解も不正解もないと思っている。でも私はなるべく誰かを傷つけることのない選択をしたい。おかしいと思うことは、おかしいと言いたい。
全てとは言わないが、これまで私が感じた世界では、100人いるとしたら、その場の99人が楽しめるなら、例え1人が傷ついてもそれは大きな問題と捉えられていないように見えた。そんなことになるなら、自分はチームで活動することには向いていないと思った。
変化の時期
昨年は私にとって大きな転機となる年だった。大学院を卒業して二度目の就職をしたと思ったら3ヶ月で辞めた。noteを書き始めたりコーチングを受け始めたりYouTubeに出たりした。同棲を始めたのも昨年だ。そんな変化続きの毎日の中で、少しずつ、自分の大事にしたいことが見えてきた。それは安心感であったり、平等だったり。それはこれまで、この世界は安心できない、この世界は平等じゃない、そう感じていたからだと思う。そしてそれらは不安や不平等と引き換えにようやく手にできるものではなく、常にあるものだと知った。その結果、これまで怖いと思っていたことに対しても、もしかしたら怖くないのかもしれない、実はこれまでも道はたくさん用意されていて、自分が1つしか選べないと思っていただけなのかもしれない、なんて、扉が小さく小さく開いていく感じがした。みんなで何かを作り上げるなんて自分は楽しいと思えない。そう信じようとしていた私が、「もしもそうじゃない世界があるとしたら?」と問い始めていた。もしなかったとしても、私は私の安心をすでに手にしているから何も問題ないと思えた。そして踏み出した先には、何も恐れる必要のない、思い描いていた以上のあたたかな世界が広がっていた。
展覧会の運営メンバーで話し合う中で、私の意見が通ることが何度かあった。「それすごくいい!」と言ってもらえる瞬間、嬉しい気持ちと同時に、少し不安な気持ちがよぎった。これまでの癖で、自分の意見が採用されることが怖かった。でも、これで大丈夫なんだと思い直せたのは、みんなのこと、そして自分のことも信頼していたからだと思う。さらに、話し合いの場はいつも平等だということ、願いが叶う場を作りたいという思いは共通だということが感じられた。だからきっと大丈夫なんだと思う。そう信じられるようになった、というか、そう信じることを選択すると決めることができたのだと思う。もちろん運営メンバーのあたたかさのおかげであることは言うまでもないし、感謝してもしきれない。
幸せカレー理論
こんな素晴らしい経験ができていること、また、展覧会の広報に際して、noteをきっかけに関わるようになった方々からリアクションがもらえたことなど、本当に嬉しく幸せな気持ちに日々なっていった。そこで思い出すことになったのが、私はチームで何かを作り上げることへの抵抗と同時に、幸せになることへの怖さも、ずっと抱えていることだった。しかし今、これは考え方一つで克服できる気がしている。
8ヶ月以上前、幸せについて、幸せオークション理論を書いた。
要約すると、これまで私は「幸せ=これまでの不幸が多いほど手に入れる権利があるもの」と定義していて、いざ幸せになりそうになると、そんな権利は自分にないと手放したくなってしまうものだ、というもの。幸せはこの世に数少なく存在していて、自分がそれを奪ってしまうということは誰かを傷つけることと同義だったのだ。
最近新たに、幸せカレー理論なるものが頭に浮かんだ。これはあくまで幸せになるのが怖いと感じる人向けの理論なのでその点ご理解いただいた上で読んでいただきたい。
カレーを食べたいと思ったらカレーを作る。カレーが完成し、カレーを食べる。ものすごく当たり前のことだけど、それと幸せも同じなのだ。幸せを怖いと感じるとき、この幸せを味わいたいと思って作り始めたのは自分だ、と思い出すこと。何もせずに勝手にカレーが出てきたのではなくて、調理してきたプロセスがあること。そもそも自分が食べたいと思って作ったのだから食べたら良いし、食べきれないなら欲しいと思ってくれる人に食べてもらっても良い。カレーはオークション会場にあったわけでも、誰かから奪ったわけでもない。なんならみんなそれぞれ好きな場所でオリジナルのカレーを作っているし、カレーじゃないものを作っているかもしれない。そんな風に思うようになってから、幸せが怖くなっても、ちゃんと受け取って味わえるようになってきた気がする。
自分はたまたま高級なお肉を貰っちゃっただけだし…とか、もしかしたら、このじゃがいも実は盗んだものなんだよな…とか、いろんな事情はあるかもしれない。けれど、今、目の前にカレーが完成しているのは紛れもない事実だ。もちろん食べるも食べないも自分の自由なのだけど、素材に心から感謝しながら、みんなで食べたらきっと美味しい、というのが今の私の答えだ。そのうちまた違う理論を唱え出すかもしれないけれど。
願いを叶える、を共に
昨年夏に仕事を辞めた。その少しあとのコーチングの記録を見返してみた。
どんな空間にいたいか?と問われた私は、こんな風に答えている。
いろんな人がお互いに良い影響を与え合っている空間にいたい
普段は言えないことがある人もお互いを受け入れ繋がりあっている
その空間を作っていきたいし、自分もそこにいたい、味わいたい
その空間にいることで、本当はやりたいことがあるのにやれていない人に、やっていいよ!と声をかけたい
失敗も、怒る人も、間違いもない空間
自分自身も満たされ、自分がやりたいことをやれている安心がある
その安心を周りの人にも届けられている
さらに、作品というワードも出てきていた。
やりたいことがあるのにそれを出さずに、心の中に作品として蓄積させている人が集まる空間
作品を心の中に溜めている人が、持ち寄った作品を見せ合い、褒め合っている
自分が抱えている作品は今はいい作品じゃないかもしれない
嫌だったこと、なんでそんなことを言われなくちゃいけなかったんだろう、なんで決めつけられなくちゃいけなかったんだろう、これって本当はおかしいよね、という気持ちが蓄積されている
まさにこの展覧会のことすぎて、予言者かしらと思う。すごく恵まれているという感謝の気持ちと同時に、この環境を手に入れる選択をした自分に対する誇らしさもある。この小さなはじまりが、この先なにに繋がっていくのかはわからない。でもわからないからこそ面白い。あたたかな空間があること自体が私を形成していくだろう。
この感覚を、この体験を。多くの人に届けられたらいいなと思っている。今の私が心の中に抱えている作品は、苦しかったときの自分にかけてあげたい言葉で埋め尽くされている。
いいなと思ったら応援しよう!
