発達障害が輝いて見えるようになった私の変化
子どもに発達障害があると分かった時、それから自分にもその特性を強く感じた時、私は社会から切り離されたような感覚に陥りました。
でも医者はガックリさせるために診断するわけではないですよね。
診断することで必要なサポートが受けられたり、自分と向き合うヒントにできたりして、よりよい生活を送るために、困り果てた現状から一歩進めるために診断をするわけです。
なのに、どうしてこんなにも暗い気持ちになってしまうんだろう。
一緒に暮らしていて、こんなにも自分に正直にイキイキと過ごしている子どもたちのことで、どうしてこんなにも悩まなければならないんだろう。
そんな気持ちになっているママ、いませんか?
私は長いことそんな気持ちの中で必死に頑張ってきました。
誰かが悪いわけではないのに、歯車が合わない違和感だらけの毎日にやっと光がさしてきたのは、捉え方が少しずつ変わってきたからでした。
どこまでうまく言語化できるかわからないけれど、言葉にしてみたいと思います。
ここでお話しすることは、私がいろんな勉強会に出たり、本を読んだり、実際に体験して感じたり、私なりに解釈して考えたことです。
それを前提に読んでいただけると幸いです。
発達特性が輝くにはメガネを外す
発達障害が輝くのは、目の前の子どもが何かを成し遂げて、スゴイ!とママの目がキラキラと輝くことではありません。
発達特性を社会適応にジャマなものと捉えるのではなくて、その子らしさだとそのまま捉えられることだと思うんですね。
言葉で言うのは簡単だけど、実際は難しい。
それは親が体の一部になっている「価値観メガネ」を外すことができないから。
私は自分の価値観メガネを徹底的に壊しすぎて、今までの自分がなくなってしまい、これはこれで大変でした。
百ゼロ思考、完璧主義、自他の境目があいまい、他人軸に偏りすぎるなどの自覚がある方はやり過ぎにご注意を!!
発達特性を含め、子どもらしさを抱きしめられるには
試行錯誤した私が考える、子どもの発達特性をそのまま認められるようになるために必要なこととは
ママが
① 自分のことが大好きになる
② 何気なく過ぎていく毎日を尊いこと、幸せなことだと感じられる
③ 必要最低限の生活を知る
ことだと思いました。
簡単に言ったら、大したことはしていない自分と大したことない生活や状況を抱きしめられること。
言葉にするとサラッとしているのだけれど、私はこの感覚を得るために、
● 今までの人生の棚卸し
● 自分とは全く違う価値観の人を見て感じて納得する
● 今まで選択することのなかった方法や考え、行動をあえて選択してみる
ということを繰り返して、自分の中の価値観をぶち壊し、新たな価値観を作り上げる必要がありました。
例えば母とのことを吐き出したこの記事↓
この記事を書いたあとは気持ちがスッとして、一歩進めたような気がしました。
こんなふうに自分の中のモヤモヤと向き合い続けた結果、人との違いに不安になることが減り、頑張らなくてもいいと思えるようになりました。
そして、自分らしさやその人らしさが尊いなぁーと自然と感じられるようになりました。
また、長男の「学校に行かない」選択も、お家にいるからこそできる学びも、アリなんだなぁーとそのままを受けとめられるようになり、成長という変化を楽しめるようになりました。
母親としての自信喪失が緩和され、これからの時代をどう生きたら楽しめそうかな、とワクワクな視点が持てるようになりました。
頭だけでなく、心でも感じ、無意識に落とし込むと変わる
大事なのはこう思うべき、考えるべき、と頭で考えて価値観の上乗せをすることではないのですよね。
こういうときの足し算は苦しいです。
今できてない自分を否定していることが前提だから。
それよりも今の自分を感じたり、過去の責めがちな自分をいたわってあげることが大事。
つまり、感じる心を大切にして、自然とそう感じられるまでに落とし込むことが必要でした。
やりがちなのは、発達障害の子どもを理解するための学びやノウハウばかりに捉われてしまうことです。
学びはとてもとても大事なんです!
学びで知識を得たあとは、もう一度目の前の子どもや自分をどう捉えるか、しっかり向き合えたらいいんじゃないかと。
本を読んで基本的な考えを理解するとか、うまくやるためのノウハウを学ぶとか、それって頭で考えている状態です。
でも頭ではわかっていても、心がついていかないとか、無意識のところでは相反する行動をしてしまうとか、多々あるんです。
例えば、ここで子どもを褒めたらいいのはわかってるんだけど、自然と言葉にはならない、もしくはめっちゃ演技になってて心からの言葉にならない、とか。
この状態って頭では理解できているんだけれど、腹落ちしていない、無意識ではまだ納得できていない状態じゃないかなぁって思います。
腹落ちするとか、腑に落ちるとか、自然とそうなる、みたいなところまで落とし込んでいくには、私は自分の感覚とか感じていることを知る必要がありました。
自分の心や感情と向き合うこと。
そのときに大事だったのは、自分の母親との関係や自分が子どものときの体験とかを振り返って、ひとつひとつを言葉にしていくことでした。
そんなことを何度も何度も繰り返して積み重ねていくと、頭でアレコレ考えなくても、ふと子どもにかける言葉が変わっていたり、自分から出てきた言葉にビックリしたり、いつもとは違う心穏やかな自分に気づいたりすることが増えてきたんです。
これってとっても不思議な感覚で。
自然と、なんとなく変わっていく感じなんです。
無理やりにそう思おうとしているわけではなくて、気がついたらそうなっていた、みたいな感じです。
何が変化してるのかなと細かく振り返ってみると、小さな気づきの繰り返しをしていたりします。
今まで感じなかったことを感じていたり、同じことを話しているのに今まで気に留めなかったことが気になっていたり。
視点が広がっているのかな。
心に余裕ができていて、気づく範囲が広がっている感じもある。
いちいち自分を責めなくて良くなっていたり、相手を見るポイントが変わっていたりもします。
それは小さな小さな変化が、あるときポンっと新しい何かを生んでくれるような感じです。
そこまでくると、子どものうまくいかないこととか問題になっていることなんかは大きな問題ではないことにも気づいてきます。
そして子ども成長を待てる余裕と楽しみが自然と生まれている感じです。
発達障害は社会的な障害
発達障害は社会的な障害と言われています。
発達特性により多数派とは同じようにできないので社会適応が難しい。
でも考え方や捉え方で何とかなったりもするんですよね。
『書字困難→パソコン入力、写真で撮る』
これは例えば何かを学ぶ際、覚えられないからメモをする、ノートに書くという場面で書字障害がある場合です。
今は携帯で写真を撮ったり、パソコン入力する選択肢もありますね!
『人とリアルな会話が苦手→チャットなど』
我が家の長男は筆談やメモでのやりとりの方が安心するようです。
ゆっくり考えられるし、目で見える方がわかりやすくて安心するんだと思います。
人とのやりとりは会話が当たり前、用事は電話で済ます方が早い、なんてのがフツーだと思っている方が多いところでは生きづらいです。
でも相手との意思疎通や依頼、相談を目的にするとしたら、それはチャットでもメールでもできると思うんです。
ひとつのやり方、フツーと言われるやり方に固執せず、目的に対して自分が手段を選択できる社会では困難感も減ると思います。
何よりつらいのは、周りの人間、特にいちばん守ってほしい人間である親が「フツー」を押し付けることじゃないかな、と。
生きてきた中で身についた「当たり前」という価値観メガネを一度横に置いて、ありのままの子どもを見ることができたとき、子どもの輝きが見えてくるんじゃないかなーって感じています。