世界の見え方が変わったのは母との関係を再考できたから
不思議なのだけど、母との関係を再考してから、物事をかなり俯瞰して見られるようになりました。
なんというか、人や物事に対して、私はいつだって真正面から向き合い、やれることはやりたいと自分のキャパは考えずにひたすら走ってしまっていたのが、
今の自分の最適はどこらへんか、をなんとなーく頭のどこかで考えられている感じで、今まで通り動いてしまったとしても罪悪感があまりなくいられています。
母との関係性を振り返るって意味のあることなのだなぁ、と思いました。
それについての想いをひと言、記録します。
どんなことでどんな変化を感じたのか
実際のところは私の感覚と事実は離れているのかもしれないのだけれど、つまりは母は発達障害なんてなくって、私の方に発達に強い特性があったのかもしれないけれど、
というか原因なんて本当はどうでもよくて、
自分がわかってほしいと思う渇望感とそれが得られなかった悲しさを手放せたことが多分大事なことで。
理解できないこともあるんだ、仕方のないこともあるんだ、でもその中で得られるものもあるし、そういう境遇だって悪くないんだ、と思えたことが次につながったのかなぁと今は感じています。
子どもたちを見ていると、私がどうこうしようと自分たちの望みに向かって自分で選択して生きているし、自分が今どうしたいのかをよくわかっているんです。
望みが違うから考え方も違うし、選択することも違う…
それはとても自然なことで、だから私も自分の感覚を大切にしていい、と思えるようになりました。
今までは自分とは違う選択をしている子どもを見ていたら、「大人になったら困るってば!」と一人でモヤモヤしていたり、不安になったりしていたのに。
未来なんて何がどうなるかわからないもの
私が青春時代にめちゃくちゃ頑張って取った医療技術専門職だって、やめたら免許証なんてただの紙くず。
どうしてその資格を取ろうとしたのか、についてはいくらでも語れるけれど、この資格の未来とか自分の生活の中での優先順位とか考えると、どうにもフィットしなかったりします。
だけど医療の世界はどんどん変化します。
まぁどの世界でもそうでしょうけど、一度離れたら、感覚を取り戻すことも、「今」を知ることもかなりの労力になります。
やめるよりは細々とでもその世界にいた方がいい、生活費のためには一番効率がいい、そんなふうに打算的に考えている自分がとても不安定で、
今の時間を精一杯生きる子どもたちに負けそうというか、圧倒されてしまう自分に情けなくなります。
だけどなんかやっと大人になったのかなぁ、私。
今までがフワフワし過ぎてたのかなぁ。
やりたいことやって、思う存分没頭して、他のことなんて考えてこなかった…子どものまんまだったことがいっぱいあったんだろうなぁ。
母との関係も含めて。
本音と建前
本音と建前の建前がどうしても苦手だった私が、最近建前を上手に使えるようになってきました。
あはは。
一番ピュアな私を出せるのは夫と、仕事の患者さん。
仕事の患者さんには、思いっきり人の役に立ちたい自分を解放できるから。
もちろん線引きは必要なのだけれど、ブレーキをちょっと緩められるところが心地いい。
それ以外はキュッと閉じててもいいんだ…それが長年できませんでした。
ついどこでもピュアな自分が顔出しちゃうから、すぐに傷ついちゃって。
そんなんどこででも出すな!なのに、出さずにはいられなかったのは、「わかってほしい」の渇望感に支配されていたから。
どこかわかってもらえる場所が欲しかった…でもそれはもう選びましょうよって感じですよね。
来年の1年は…
今の私、守るところを守れるようになったら、気分の急降下がなくなりました。
気分のコントロールにかなりのパワーを費やしていたから、だいぶ省エネできるようになりました。
ちょっとずつ循環良くなっているかな…その変化に体がまだついてこなくて、今日は頭痛なんですけどね。
でもこの年末、ステイホームでゆっくりと過ごせたら、来年は新しい自分で出発できそうな気がします。
ちょうど1年前、違ったゴールを夢見て一歩踏み出した自分がいました。
そのときに想像していた1年後ではなかったけれど、自分が本当に望んでいたことは実現できたんじゃないかなって感じています。
ちゃんと自分に出会えた感じです。
こうなると周りの人が何やってるかなんて気にならなくなるものなのですね…不思議。
やっと自分のために動けそうな気がします。
(去年の今頃は自分のため、と思っていたけれど結局はお金のため、つまり家族のためだったんですよ)