ペルソナ3とわたし
いまから約10年前に『ペルソナ3』と出会った。
現在プレイ中の『ペルソナ5ロイヤル』でライブMV「Brand new days」を聞いていたら、当時のことをいろいろ思い出して溢れるものがあったので、なんとなく綴ってみることにする。
一応説明すると、『ペルソナ3』というのはRPGメーカーのATLAS(真・女神転生等)がつくる『ペルソナ』シリーズ3つ目にあたる作品だ。
シリーズの特徴としては、高校生とその取り巻く環境をベースにしながら、ダークな世界観の基で主人公たちの無意識下の自分自身ー「ペルソナ」を武器に敵と戦っていくというものだ。
当時発売したのは、『ペルソナ3ポータブル』(通称P3P)だった。とくにやるゲームがなく持て余していたのを、友人に強く勧められて何の気なしに始めたのだった。
すぐにハマった。
自分が学生だったこともあり、入っていきやすかった。加えて、戦う手段がペルソナというアイデンティティの実体化というのが何ともクールだった。学生時代にこの設定にビビッとこないひとはいるだろうか。
入りはそれで良かったろうが、物語が後半に進むにつれシリアスさは深まっていった。
何度一喜一憂したかわからない。裏切りもあったし、仲間の死もあった。
それでも特別課外活動部の仲間と、コミュで関係を深めた皆と、日々を過ごしていくうちに、彼らが生きているこの世界を救いたいと本気で思っていた。
だからこそ、最後の敵がニュクス(死そのもの)で、戦ってはみたものの当然のように勝ち目のない相手だとわかったときには心から絶望した。
そして、仲間からの応援と一緒に、大いなる封印を発動したときは、悲しみ以上に安堵が大きかった。
これで世界を守ることができた、と思っていた。
彼の決断は、自分のした決断になってしまっていた。
無事エンディングを迎えて、アイギスに見守られながら主人公が息絶えたとき、自分も死んでしまった。もちろん本当に死んだわけではないが、あまりにシンクロしすぎていて、そう錯覚した。
主人公が死んだのに、自分が生きているのが処理できず、ただただ虚無の感情になった。登校して、同じようにクリアした友人らが感想を言い合っているのが全く理解できなかった。
皮肉なことだが、ゲーム内の自分はたくさんの仲間がいて、絆があって、誰かを救う力もあった。もっと言うと、ゲーム内で起こる悲しい出来事ですら、特別であるが故のものだ。主人公には困難に苦しむ「資格」があった。
現実の自分にはそんなものはない。
そこにはただ毎日ゲームだけに明け暮れた人間がいるに過ぎない。
そのことを理解しないまま終えてしまったために、現実に戻ってきた自分が、ほんとうにくだらない、取るに足らない無価値な存在であることに気がついてしまった。
虚無感でしばらく立ち直れなかったが、救いの一手があった。
ペルソナ3には後日談となる続編がある。『ペルソナ3フェス(P3F)』だ。
もしかしたら、主人公が復活してみんなと幸せな日々を過ごしていく終わり方かもしれない。
甘い考えだった。
まず初っ端で主人公の死を改めて突きつけられて凹んだ。それ以上に、特別課外活動部の面々が主人公の死によって暗くなっているのが耐えられなかった。
中盤で仲間割れが起こったときは吐きそうだった。
本編であんなにも絆を深めた仲間たちと殺し合うのは残酷すぎた。数週間くらい詰んだ。
最終盤、ニュクスと大いなる封印の真実を知った時はとうとう挫けそうになった。エレボスと戦うのも虚しかった。こいつを倒したところで結局何も変わらない…
守ろうとしていた世界に裏切られた気分だった。
結局、主人公とみんなが幸せに過ごす日々は、二度と、絶対に訪れることがないとわかったに過ぎなかった。
そこから向こう1年くらいは気持ちが沈んでどうしようもなかった。
ペルソナ3が直接的な原因では一切ないが、その1年間(厳密にはペルソナ3と出会う前から)で家族のこと、バイト先でのこと、進路のこと、恋愛のこと等々、様々な方面で一挙に破産が押し寄せてきた。
「お前には価値が無いぞ」というメッセージをたくさん受け取った。
自分という存在が、いてもいなくても変わらないどころか、そもそも存在しているせいで種々の苦しみが生まれていると思うと、ただただ辛かったのを覚えている。
「Brand new days」にこんな歌詞がある。
痛みがくれる宝石知ってたはずなのに
なくした光だけ数えてた
この部分だけは、未だに何度聴いても胸が劈かれるような思いが走る。
そういったこともあって、ペルソナ3は苦い記憶と常にセットになっている。しかし、ペルソナ3が心の支えになっていたのも事実で、出会わなければよかったとは思わない。
しばらくの間、現実に目を向けないためにひたすらドラマCDや二次創作を漁り心地よい世界に浸っていた。惨めだが、それがなければ今生きていなかったかもしれない。
でも、「この作品のおかげで〇〇を学びました!」といったよくある感想レビューのようなことは口が裂けても言えない。
ネガティブなことばかり書いたが、フェスで好きなシーンがある。
エレボスを倒し、3月31日から開放されるときだ。アイギスとゆかりが扉をあけて青空の中笑顔を取り戻し、自分たちのこれからのために生きていこうとする姿はとても輝いていた。
アイギスの笑顔の豊かさに、彼女は本当の意味で人間になったんだと感じた。
しかし、これまたネガティブな話だが、
見れば見るほど自分はエレボスの側だと思った。
彼らのようにまっすぐに生きていくことはできないとわかった。
辛いことがあれば、すぐに「死にたい」と思うだろう。
あの時期に自分に価値があるというような肯定感を決定的に失ってしまったようで、誰かに肯定されたり、褒められたりしても全く自分のこととは思えず、自分とは違う誰かの話をしているように感じて疎外感を覚えてしまう。
そもそも自らが生きるに値しない存在で、生きているべきではない、厳密には生まれてくるべきではなかったことを思うとさらに虚しくもなる。
この先も永遠に「生きていてよかった」と思うときが来ることのないことだけはわかる。
アイギス達は「なくした光」を「数えること」から脱して新しい光の方へ向かっていった。本当に嬉しいことだった。
しかし、それを思うとき、隣にはいつも暗く冷たい感情もいるのだった。
自分はまだ、彼らのいなくなった3月31日で、ニュクスを憧憬の眼差しで見つめている。
私は生を嫌っているのでも、死を願っているのでもない。ただ生まれなければよかったのにと思っているだけだ。
ーシオラン『カイエ』