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「私なんか」は仲間に失礼|企画メシ第5回「なんとかしたいの企画」
このnoteは、コピーライター・阿部広太郎さん主催の連続講座『企画メシ2023』第5回のジャーナルライティングです。
何をしても自信を持てなかった。
「すごいね!」と言われても、「いやいや、人に恵まれたから」「環境がいいから」と返す。
褒められたらまず困る。真っ向から否定するのは相手に失礼だし、間に受けるのも驕ってるみたいで嫌。
けれど、謙虚や謙遜のつもりだったその返答は、いつの間にか自己否定に変わっていた。
「私なんか大したことない」「みんなできることだし」「自分が好きでやってるだけだから」
呪文のように返すこれらのことばは、どんどん自分に厳しく当たり、首を締めていった。
どうして主観的だと思うんですか?
『企画メシ』第5回の講座で阿部さんに質問したときに、こう逆質問された。私は即答できなかった。
いっそ「自分にしかわからないこと」に振り切って
『企画メシ』第5回「なんとかしたい」の企画課題は以下の通り。
「なんとかしたいの企画」
自分のことで、もしくは 身の回り(社会、世界を含め)のことで、 なんとかしたいと思うことはありますか?
「なんとかしたい」を起点に、 それをどう変えていけるか企画を考え、 企画書にまとめてみましょう。 (枚数は1枚以上)
「なんとかしたい」の企画の課題を見たとき、「そもそもなぜ人はなんとかしたいと思うのか?」を考えた。
・自分にとって不都合だと思うから
・変えた方がより良い社会になると思うから
めっちゃ主観じゃん。
私が出した結論はどれも、独りよがりで身勝手な定義だった。
悲しくなった。結局、そう自分で判断しているだけじゃん。そしたら、自分の「なんとかしたい」って、周りから見たら大したことなかったりするんじゃない?
どうしよう。そしたら、社会的意義とか私が唱えても意味ないかも。
結局私は、自分にしかわからないようなことに振り切ることにした。
私が企画メシに入ったきっかけ。それこそ「なんとかしたい」だった。
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「動機」と「ゴール」を明確にすると、人は共感する
なぜ「なんとかしたい」のか?
なぜの「動機」と、この企画を立てることでどうしたいかの「ゴール」を明確に決めることで、人の共感を呼べるかが決まる。
この内容を聞いたとき、私は腑に落ちた。
「それぞれの主観に基づいた企画になぜ共感するのか?」
それは、企画を立てるうえでの「動機」があるから。達成したときの「ゴール」がみえるから。
どの企画も実現したら嬉しいし、応援したいし、参加したいと思った。実際個別に連絡も取ってみた。
誰かの共感を得られたらそれは、「ひとりごと」ではなく「ふたりごと」
それでもやはり、「この共感は、企画生という似た価値観の集まりだから感じるものでは?」と思って、阿部さんに質問をした。「なんとかしたい」は主観だと思うということを添えて。
阿部さんは「逆に、遠藤さんはどうして主観的だと思うのか」私に尋ねた。
私は即答できなかった。企画生が企画をつくる裏側を取材する『裏企画メシ』も、「自分の判断で勝手にやっているだけだし」と「周りの人の役に立つはず」がごちゃ混ぜの状態で。それを正直に伝えた。
まとまりのない言葉でも阿部さんは、丁寧に言葉を返してくださった。
「インタビューを受けた人は、どのように言ってますか?」
「自分の言葉を言語化できた、とか、勉強になってよかった、とか、記事にしてくれてありがとう、とかですかね」
「一緒に企画している人にそう言われるってことは、それはもうひとりごとじゃなくてふたりごとになっているんですよね」
私は多分、自分の企画に協力してくれた人に対して、とても失礼なことをしていたのかもしれない。
「続けていてすごいね」「インタビュー読みましたよ!」と言ってくれる人に対して、その言葉を軽く受け取っていたかもしれない。
自分の企画をいちばん大事にしてあげられるのは、自分であるはずなのに。
「私なんか」は、卒業。
今の課題は、「私なんか」と「私すごいでしょ」の合間を取り持つ言葉を探すことだ。