贈り物が気づかせてくれたこと【前編】
私のことを、いちばん想ってくれる人は誰だろう。
家族、友人、恋人、身近な人をぱらぱらと候補に挙げる。
その候補に挙がった人たちは、たとえ自分自身が苦しい状況に陥ったとしても、それでも私のことを想ってくれるだろうか。
私の母は、自分がきつい状況に置かれても、それを差し置いて私を想ってくれていた。
ずっとそうだったんだと思う。私という存在がこの世に産み落とされてからずっと、母はいちばん私を想ってくれていたんだと思う。
でも気づいていなかった。近すぎるものは目には見えない。あまりにあたりまえで、それが日常だったのだ。
あの贈り物をもらうまでは。
3人だった家族が2人になった日
2022年4月30日の夜、父が亡くなった。天国に呼ばれるには早すぎる、53歳での死であった。
父の下痢が止まらなくなり始めたのは、前年の8月から。もともとお腹がゆるい体質だったため最初は本人も気に留めてなかったようだが、10分たりともトイレ無しではいられない状況はさすがに異常だった。
私が一人暮らしをしている家から実家までは電車で40分ほど。私はだいたい2週間に1度は実家に帰るようにしている。
このときも例外なく実家に帰ると、父は2階の和室から1階のリビングにドスドスと降りてきたが、その姿に目を見張った。
父は「おう、元気?」と私にいつものように声をかけたが、絶対あなたの方が元気じゃない。
顔も、腕も、お腹も、脚も、この2週間で肉が3分の1ずつそぎ落とされていた。
特に、一時期は親戚から満場一致で「肥満」と言われたそのお腹は、紺色のTシャツ越しでも真っ平であることがわかる。
それでも病院に行きたがらない父を母が半ば強引に連れて行くと、すぐさま検査となった。
何事もありませんように、という願いも虚しく、1週間後にがんが見つかった。
診断は直腸がん。
見つかったときにはすでに肝臓まで転移し、手術すら難しいほど悪化していた。その場で入院が決まり、父は家から車で30分ほどの大きな病院に移ることになる。
残された人たちによる「後処理」
闘病生活から約半年で閉じてしまった父の生涯を悲しむ隙もなく、母はその「後処理」に追われた。
父を病室で看取って早々に涙を拭いた母は、その場で事前に取り寄せた葬祭場のパンフレットをカバンから取り出し、手際よく電話をかける。
葬祭場の人が病院に到着して無事父の遺体を安置できたころには、23時をとっくに回っていた。
葬儀の話もついでに、と思っていたがさすがに時間が遅すぎる。その日は簡単な話で済ませて帰宅して次の日の朝、母は再び葬儀の相談に向かった。
「後処理」は葬儀の準備だけにとどまらない。
父の前職の上司に報告を入れて、息子に先立たれた父の両親と毎日連絡を取る。
ゴールデンウィークが終わったタイミングで市役所に行き、死亡届と除籍謄本の発行、世帯主変更、健康保険の解約……挙げればキリがない。
もちろん私も母を手伝うため、毎週休みのタイミングで実家に帰っていたが、私が把握していないものもきっとたくさんあっただろう。
葬儀までの落ち着かない「間」
父の葬儀は5月6日に決まり、父が亡くなった4月30日から葬儀まで6日の「間」が発生した。
この年の5月は6日が日曜日のため、この日はゴールデンウィークの最終日にあたる。祝日のため役所は軒並みお休みで、「後処理」は足止め。
ただ葬儀の日を待つだけの落ち着かない日々が続いた。
母は「間」を埋めるかのように、ゴールデンウィークに出勤しようとしていた。
母は私が大学に入学したときから約7年間、ホテル清掃のアルバイトをしている。大型連休中の繁忙期は幾度となく経験しているだろう。
「どうせゴールデンウィークが終わらないと手続きも何も進まないし」。いや、そういう問題じゃない。
気は紛れるかもしれないが、自覚のない疲労は間違いなく溜まっているはずだ。
アルバイト先の責任者が止めてくれて結局出勤はしなかったが、止めてくれて助かった。
手続きで自覚する父の死
葬儀が終われば母は、いつも通り仕事に向かった。そして私と休みを合わせては市役所や税務署に足を運ぶ。
市役所での手続きは、手続きの内容によって担当の部署が異なる。一つ終わってはすぐ横の部署に行き、また一つ終わっては右の角を曲がって10歩ほど歩く。
部署に到着するごとに要件を尋ねられる母は、毎回冒頭で「夫が亡くなりまして……」という言葉を繰り返す。
それを母の右後ろで聞いている私は、言葉が重なるたび父が亡くなった事実を上塗りされているようでつらかった。言っていた本人はもっとつらかったと思う。
一方、私は疲れ果ていた。父が亡くなってまもなく、会社で大幅な組織変更があり、週に一度進捗を報告するためのミーティングが新しく加わったのである。
→後編へ続きます。