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「恥ずかしい」って、他人軸だ
最近「恥ずかしい」と思ったり、実際に声に出して言ったりすることが増えた気がする。
たとえば、私は最近ランニングを始めるためにジムに入会したが、同じジムに通う職場の人に「一緒に行こうよ!」と言われた。真っ先に首を横に振った。必死こいて走っているところを誰かに見られる恥ずかしさに、耐えられないのだ。
あるいは、昨年12月にWebエッセイ媒体『かがみよかがみ』で書いたエッセイが、編集部のおすすめに選ばれたとき。職場について書いたものなのでぜひ職場の人に読んでもらいたい、と話を持ちかけたものの、たった1人に共有したっきりになってしまった。
自分のエッセイを知人に読んでいただくことは、いまだに抵抗がある。エッセイは自分の頭の中そのもので、それを全て見られてしまうのは、まるで生身の自分が晒されてしまうような、生半可な気持ちでは見せられない恥ずかしい部分をやっと見せるような、そんな気持ちになるのだ。「えんどうさんって普段、こういうこと考えているんだ」って思われることが、大変恥ずかしい。
この「恥ずかしい」の原因を掘り下げると、私は他人からの「こう見られたい」が脅かされそうになった瞬間に「恥ずかしい」と感じるらしい。
必死で走っているところを見られたくないのは、「これくらい余裕です、と涼しそうに走る自分」から外れてしまうから。
エッセイを見られたくないのは、見られることによって「難しいこと、深いこと考えてそう」という印象を持たれたくないから。
結局他人軸なんだ、私は。「恥ずかしい」って、他人軸だ。
そう考えると何だか、恥ずかしいと思うことが恥ずかしくなってきた。いや、これも他人軸じゃん。