上田順平の「つくらない陶芸」:unpotterd
2022年10月15日京都新聞掲載
「エン/セン上田順平 -やきもの-」楽空間祇をん小西
建築しない(できない)建築構想が「unbuiled」と呼ばれるが、上田順平の一連の作品、そして「エン/セン上田順平 -やきもの-」をみて、unpotterd(陶芸しない)陶芸という言葉が浮かんだ。建築がたとえ物理的な形にならずとも、優れた構想だけで社会と人の価値観に影響をあたえる可能性がある。これは建築は都市や人の暮らしの方向性を決定する要素でもあるゆえだが、やきものにもそれだけの存在感はある。人はこれなしで生きてこれなかったし、いまもこれに囲まれているから。そして美や思想を焼き込められてきた媒体でもあったから。
ギャラリーの場所は祇園花見小路。落ち着いた座敷の空間には、普段は工芸品が展示されることが多いのだが、今回は様子が違う。畳一畳のスペースに生の瓦土が塗りこめてあり、中央には、左右の手の平を合わせて窪ませた形が穿ってある。
二〇〇〇年代、上田順平は、和風の意匠のデコラティブなやきものを発表していたが、その後、ファインセラミックスやガラスを素材に、制作をメーカーに発注した作品を個展に出品している。「やきもので自分の表現をやりたいとは思わない。人とやきものの関わりを作品にしたい」。
床に広がるのは、やきものになる前の生乾きの土。その地表と地下の中間に「手の平の窪み」がある。土は素材、手の平はそこに介入しようとする人間の作為。窪みは、二つの世界の境界を象徴している。人が両手で何かをすくうかたち。それはうつわの原型でもある。
次の間には、伏見人形の老舗「丹嘉」の「七富士」を7つ連結させたオブジェ。やきものの土人形は、このような縁起物だったり「饅頭喰い人形」のように、道徳を説く存在だった。
床の間と書院にあるのは金と白の陶板、白い立方体。京セラ製のファインセラミックスだ。土人形が人と神様とのコミュニケーションや道徳感を可視化してきたのに対して、超高精度のファインセラミックスは、半導体やクルマなどに用いられ、現代の生活をささえているのに、目に見えない。
生活と芸術の接点、そして歴史とテクノロジー、人間と万物の接点を、土とやきもののあり方を通して探究したい。壮大なコンセプトだが、やきものは、それができる数少ないメディアがであるとも気づかせてくれる。