仕方なかったはない
爆心地から約500mという距離にある浦上天主堂付近は、少年時代の父の遊び場でした。
とても幸運なことに、あの日あの時間、父はそこで遊んでおらず爆心地から3Kmあまりのところで被爆しました。
ほんのちょっとの差、ほんのちょっとのことで生死を分けられてしまったあの日のことを、生涯全く口にしなかった方、日々語り続けた方、います。どちらの気持ちもわかる。
就職時・結婚時における、被爆者や被爆二世に対しての差別を思うと口にできなかった、という方も大勢いました。
被爆したときの話、父はわたしと会話ができるようになった頃(幼稚園くらい)には既に当時の話を包み隠さずにしていたし、長崎の叔母は「思い出しとうない。話したくない。きもちわるーなる。」と言いつつ、話し始めると、重く静かな口調ながら話は止まらなかった。
米国民の多くの方は「原爆投下は戦争を終わらせるためには仕方なかった」という説を支持しているというニュースをみたことがあります。
米国民だけでなく昭和天皇も「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」と公式記者会見で述べていた。当時もう8歳だったのでよく覚えている。とても違和感を持ってテレビごしにその会見を見ていた。
小学生のときにみた映画、はだしのゲンのラストで、左幸子さんが「天皇陛下様!戦争を止める力がお有りなら、どうして、戦争始めるのを、止めてくださらなかったのですか?」と叫んだシーンがね。心に残ってます。
話は「原爆投下は戦争を終わらせるためには仕方なかった」に戻ります。
「クリスチャンであること」をアイデンティティとして強く抱いている米国の保守層や福音主義の人々に、アジアでは珍しいクリスチャンシティのナガサキ、しかも中心部分でなく、軍事施設でもなく、天主堂に原爆を落とした、という事実を伝えて聞いても、同じ答えが返ってくるのでしょうか。
オバマ元大統領が広島を訪れた際、トランプ大統領は「彼は広島にいる。謝罪さえしなければそれでいい」とTweetしたけれど、やはりわたしは米国政府に対して、原爆を落としたということについては謝罪を求めたいんですよ。
ちょうど11時2分になりました。黙祷。