#11 本屋をなくしてはいけない。それはそうなのだが。
本屋をなくしてはいけない。辛い時こそ本に奮い立たせられる(入院中に本があって助かっている)。読書のストレス軽減効果は心理学的に証明されている(いやほんとそれ)。対面コミュニケーションができない今だからこそ、本を通して著者とコミュニケーションをとるべきだ(同じ病室の他の患者と話もしないしなあ)。本を読み、人と会話し、旅する中でアイデアは生まれる。人と旅が制限された今、本だけが最後の砦だ。それにもかかわらず、コロナ対策の名目で本屋や美術館や博物館までもが営業自粛を要請されてしまった。
だが、文系アカデミアのリベラル派の政治学者などを見ていると、「本屋をなくしてはいけない」という主張が空疎なものに思えてしまう。あなた方は飲食業や観光業に対する規制に賛成し、そうした規制を扇動さえしましたよね?と。そうした産業が苦境に立たされた中で、GoToイートやGoToトラベルに強固に反対し続けましたよね?と。グローバルダイニングに対して何を言いましたっけ?と。これでは、自分が文化で食っているからそういう風に言っているのだとしか見えない。
以下は、マルティン・ニーメラー牧師の『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という有名な詩である。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
飲食業や観光業のために声を上げないどころか、それらの業界を攻撃しておきながら、本屋や文化産業が政府に攻撃されたら文句を言う。なんという変わり身の早さ、なんというご都合主義、なんというダブルスタンダードだろうか。
自分は犯人ではない、○○こそが犯人だ!(○○には飲食業界や観光業界、パチンコ業界、あるいは外国人のように「叩きやすいもの」が入りがち)という魔女狩りのような主張に溢れかえっている。こんな主張を煽り自由を制限することを正当化しておきながら、自分の好きなことの自由が制限されようとすれば怒る。そのような態度を誰もが取れば、行き着く均衡は囚人のジレンマゲームでいう「互いに自白」だ。ナッシュ均衡ではあってもパレート最適ではない均衡解だ。誰の自由も侵害され、窮屈な生活をせざるを得ない、そういうクソな均衡だ。そこは理解しておく必要があるだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?