かお✨しなやかにうつくしく
~ワンランク上の大人をめざすあなたに~ 知っていると知らないではあなたの印象が変わります。 マナーとは形式ではなく、相手を敬い、思いやる心が基本です。 さすがと言っていただける自分になれるようお届けしてまいります。 記事のリクエストがございましたらお声かけくださいね。
わたしは、 幼い頃からたくさん習い事をしてきました。 最初に始めたお琴は三歳から。 (お琴の免状取得のために必要となる三絃も含め) 習い事は継続してこそ見えるものがある と信じていたこともあり、 大人になるまでは、お琴と書道をメインで 続けてきました。 その結果、 お琴は教授(指導可)レベルまで上達し、 書道は理事(会派の)になるまでになりました。 しかし、大人になってから、 一度きりの人生、 気になることは全てやっておきたい と思うようになり、気になったモノは
大学時代、友人と一緒に京都の南座というところに 歌舞伎を見に行ったことがあります。と言うのも、 当時イケメンな役者さんが揃って沢山舞台に立たれ ていたから。 有名な役者さんが出る演目はやはりチケットも高い 。手持ちの軍資金と見比べ、節約する必要がありま した。 交通手段は、隣に誰が来るかわからないという怖さ があったものの、夜行バスしかありませんでした。 初めての夜行バスに、お互いお尻が痛くて京都につ いたころにはグッタリ。 それでも南座に到着すると、その疲れもすぐに
あなたの周りに、認知機能の衰えが見られる方は いませんか。わたしで言うと、身内に認知機能の 衰えが見られる人がいます。 シンパイなので頻繁に声かけをしたり会話をする ようにしています。わたしは医師ではないので治 療は出来ません。 研究者でもないので科学的データに基づくエビデ ンスもありません。 ですが、感覚的に良いのではないかと感じて行っ てきたことに間違いはありませんでした。 実際にうちの両親も同世代が認知機能に問題を抱 える中、特にボケたりもせず元気に過ごすことが
あなたはカシミヤのセーターをお持ちでしょうか。 今ではユニクロとかGUでもお安く出ているので気 軽に着ることができますよね。でも、わたしの学生 時代はカシミヤって高級品の代表格みたいな感じで ”THE・大人が着るモノ” そんなイメージでした。 そんなカシミヤのセーターをわたしが初めて着たの は高校生の時、ちょうど今くらいの寒い季節でした 。 わたしが通っていた高校では、学生服はボックスコ ートとプリーツスカートの組み合わせ。ボックスコ ートの下には白か濃紺の無地のセータ
わたしが暮らす街は田舎なこともあり、人も少ない ところ。当然、近所にも歳の近い女の子はゼロ。 子どもの頃はいつも歳の近い男の子と遊んでいまし た。特に仲良くしていたのは裏に住む一つ下の男の 子でした。 学校が終わってその子の家に遊びに行ったトキのこ と。 「今日はチャンバラごっこをする」 と彼は言い出しました。けど、わたしはお人形は持 っていてもチャンバラをするための刀がありません 。 「わたしは刀を持ってない。」 そういうと、その男の子はこう言いました。 「つ
子どもの頃、わが家では、毎年2月になると応接間 にひな人形を飾っていました。それは母方の祖母か ら孫であるわたしに贈られたもの。 母の仕事がお休みになる週末に、大きな箱を数箱引 っ張り出して、飾っていました。役割分担で父は7 段にもなるひな壇をモクモクと組み立て。 いつも人形の顔が後ろ向きになっていたりするのを 直しながら、 「これはどこに座らせるんだったっけ?」 などと母とお話しながら楽しくセッティングしてい ました。 当日は従兄弟たちを呼び、ひな祭りのための母の
あなたは恵方巻を召し上がられますか。 わが家では毎年、馴染みの魚屋さんに恵方巻と鰯 を注文しています。 「恵方巻なんて商売目的だ!」 なんて声もありますが、わたしには関係ない話。 なぜって「季節を大切にしたい」という想いが一番 だからです。 わたしの中で最も大切なのは家族の健康を守るコト 。そのために、自宅にいても季節を感じることでリ ズムを作って欲しいと思うから。 今の時代、医療も発達して持病があったとしても長 生き出来るようになってきましたよね。必然的に認 知症
「今日もコロッケ~♪ 明日もコロッケ~♪」 あなたはこんな歌をご存じでしょうか。わが家では コロッケを作るトキ、祖母はいつもこの歌を口ずさ んでいました。 身体の弱い祖母が夕食の支度を始めるのはいつも17 時頃。日課となっている「水戸黄門」を見終えると 、ベッドから起き上がり、少し暮れかかった茜色の 空を見上げます。 するといつも祖母はキリリとお手製の前掛けを腰に 巻き、歌い始めます。 「今日もコロッケ~♪ 明日もコロッケ~♪」 わたしは子どもの頃、とても不思議に感
子どもの頃、年に数回は法事があって、母の実家に 家族で出かけていました。出かけるとは言っても、 自宅から車で10分程のところ。 それでも幼い頃は、歩いて行ける距離でもなく、呼 ばれごとがあれば行く程度でした。両親と共に出か けたその場所には、縁側に足を放り出して座ってる オバサンがいつもいました。 記憶では三人くらい並んでいたのですが、手を後ろ につき、スカート丈は膝のあたり。何かスカートか らチラリと見える肌色のもの。 それは足ではなく、ショートパンツのようなもので
3歳から始めたお琴。 わたしが住む市には「三曲会」と言う、琴、三味 線、尺八で演奏する会がありました。師匠もその メンバーであったため、春と秋に師匠と共に演奏 会に参加していました。 いつも公民館で開催される文化祭に三曲会の一員 として出演。小さすぎて記憶が定かではないので すが初めて出演したのはわたしが5歳くらいだっ たのではないでしょうか。 日頃は師匠とわたしだけで練習をし、演奏会が近 くなると、特別に全体練習を行う日が決まり、三 曲会のメンバーで集まっていました。
小学校に上がるトキ。 事前説明会が何度か開かれ、それに従い、準備を していました。そのリストには、毎日自分の机に 座って使うこととなる「座布団」もありました。 座布団が必要となる理由は、木の椅子だからお尻 が痛くなるのを防ぐため。注意点として、 「小さな椅子なので、座布団がおっこちないよう に紐などがついていると良い」 というようなことが書いてありました。 すると、それを知った祖母が、座布団は自分が作 ると言い出したのです。 わたしは小学校生活がよくわからないの
祖父はいつも自宅で松の剪定や、掛軸を書いたり 彫刻をしたりしていました。そして時に、尺八を 吹いていたりもする芸術家肌。 わたしはこんな祖父と共に幼少期を過ごしてきま した。 松の剪定時期になると、祖父はいつもカセットテ ープに録音した尺八の演奏を聴きながら、作業す るのが日課。 庭に植わった沢山の松は、生活に困った時に商売 にでもなればと祖父が植えたもの。それなのに、 育てているうちに愛着が湧いてしまい、わが子の 様に大事にしていました。 元々芸術家肌でもあるせいか
わたしは共働き家庭に育ち、お食事はいつも祖母 が担当してくれていました。 食材は週末に一週間分まとめて段ボールいっぱい になるまで両親が車で買い出し。祖母が冷蔵庫に あるものを工夫して家族分を頭に思い描いて料理 していました。 時々振る舞われるメニューの一つに「お好み焼き 」がありました。祖母が焼くお好み焼きは大きな ものを取り分けるのではなく、ひとりひとり別々 に焼くスタイル。当時のわが家はガス台を使用し ていたのですが、コンロぐちは2つのみ。 けれど、家族5人分。
子どもの頃、何かにつけ、よく風邪をひいていまし た。喉が痛くて、頭が痛い。幼いながらも、「風邪 かも?」というのはジブンでもわかりました。 「おばあちゃん、のどが痛い・・・」 そう言うと、祖母はいつも直ぐに手をおでこにあて てくれました。そしてジブンのおでこにもあててい ました。 「かおちゃん、熱を測ってみようね」 そういうと、今では見かけない水銀の入った体温計 を取り出し、脇に挟むように促されます。いまなら 計測すると「ピピッ」とアラーム音が鳴りますが、 音なんてな
わたしも今ではマナーを学び、その一環でワイン のこともお話するまでになっています。 しかし、教員として中学校に就職したての頃はま るでお酒も飲めない状態でした。 4月から務めることになった中学校で、歓迎会を 催してくださることに。場所は町内にある古い仕 出し屋さん。 当時、わたしは授業以外にクラブも担当していた ので、他の先生方と同じようにクラブ活動を終え た後、一度自宅に戻ってからお店に向かうことに していました。 と、言うのも歓迎していただくのに、多少なりと も身
4月にコンサルを受けることを決め、早くも半年 以上が経ちました。決めるまでの間、数か月置き にDMが来て 「お話しませんか」 と。わたしは、ホンキでただお話がしたいのだと思 い、何一つ疑うことなく楽しく会話していました。 そして、何回目かのあるとき 「かおさん、ビジネスやった方がいいですよ」 と促され、ついに決断。 「わたしにビジネスなんてできるのだろうか ・・・」 という不安があった半面、どんな未来に連れて行っ てもらえるのだろうというドキドキもありました。