『コズミック・ジョーカー』は読者をどこへ導くか――「清涼IN流水」読みについての一考察
1 注意書き
この記事には清涼院流水『コズミック』『ジョーカー』に関するネタバレが含まれます。
『コズミック』のトリック、『ジョーカー』の犯人、両作品の構成について言及する箇所があります。
『コズミック』および『ジョーカー』を読了の上お読みいただくことを推奨いたします。
まあ『コズミック』と『ジョーカー』を読んでない人類はいないと思うので大丈夫でしょう……。
2 はじめに
ミステリを読んでいて”まれによくある”のだが、探偵役等の登場人物によって明確に指摘されてはいないけれど、読者にだけ提示されている隠された真相(と思われるもの)を発見して「うわすごい! これに気づいた自分もすごい!」と思うことがある。
しかしこれ、だいたい直後に冷静になって「いや……これくらい誰でも気づけるよな……」と卑屈になったり、逆に「実はただの深読みで、自分の妄想なのでは? 作者もそんな意図で書いてはいないのでは……?」と不安になったりする。
ならない?
私はなる。しょっちゅうなる。
(具体的にこの作品のこういうところと言及できないのが辛いところ。安心していただきたいが『コズミック』と『ジョーカー』以外のネタバレはこの記事にはいっさいない)
今回の話もそういう話である。
3 この記事の目的
星海社から『コズミック』と『ジョーカー』の新装版が出た。この記事を読んでいる時点で、そのことを知らない方はいないだろう。
私は過去にノベルス版で一度、文庫版で一度両書を読んでいる(文庫版では「清涼IN流水」読みをした)。一度ずつしか読んでいないので必ずしもコアな読者というわけではないが、この読書体験は私の人生に不可逆の影響を与えたことは間違いない。
その影響を思い出したいというややノスタルジーな理由でこの度新装版を読んだ。そして過去に文庫版を読んだ際には気づかなかった、「清涼IN流水」読みの新たな効果に気づいた。それは「これこそが「清涼IN流水」読みの真の意図なんじゃないか」と思えるほどの驚きだった。
これが「清涼IN流水」読みをした人なら当たり前に気づけることで、だから誰も言及していないのか、あるいは逆に単なる自分の妄想なのか、判断がつかない。
そこでこうして記事にまとめてみることにした。
もし『コズミック』『ジョーカー』を愛する(偏愛する?)方が読んでくださったなら、この考察が上記のどちらにあたるのか(あるいは千二百分の一くらいの確率で、新たな発見となっているのか)コメントで教えていただけると嬉しい。
4 「清涼IN流水」読みの概略
で、そもそもさっきから言ってる「清涼IN流水」読みってなんなの? となっている方……はほとんどいないとは思うが、念のため確認しておこう。ミステリでも解決編での改めての状況確認は重要である。
『コズミック』と『ジョーカー』の文庫版はそれぞれ上下巻で出ている(計4冊)が、各巻には「上」「下」ではなく、『コズミック流』『コズミック水』『ジョーカー清』『ジョーカー涼』という副題(?)が振られている。
『コズミック流』と『ジョーカー清』(つまりそれぞれの上巻)には巻頭に著者からのメッセージがあり、「理想的」で「作者オススメ」の読み方として、『コズミック流』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』→『コズミック水』という順番で読む方法が紹介されている。
この読み方をすると、ジョーカーの「清」と「涼」がコズミックの「流」と「水」の中に入るので「清涼IN流水」になる、というわけである(言うまでもないが、著者名の「清涼院流水」とかけている)
著者は「生涯で未体験の刺激をお求めなら」迷わずこの読み方(すなわち『コズミック』の前半を読み、その後『ジョーカー』を通して読み、最後に『コズミック』の後半を読む)をおすすめすると言い、「ふつうの読み方では見えない仕かけが、ハッキリ見える」かもしれないとも言っている。
普通に『コズミック』→『ジョーカー』、あるいは『ジョーカー』→『コズミック』の順で読んだときとは違う体験が得られる、とされているのが「清涼IN流水」読みなのである。
5 「清涼IN流水」読みの第一の(一般的な)効果
※この辺りからスーパーネタバレタイムが始まるのでご注意いただきたい。
まずは、一般的に「清涼IN流水」読みで得られる読書体験とはどんなものと考えられているか、を確認しておきたい。
これは過去に私が文庫版『コズミック』『ジョーカー』を「清涼IN流水」読みした際に認識したものである。
また、「清涼IN流水」読みに言及している書評ブログやX(旧Twitter)でのポストでも、これが『「清涼IN流水」読みの効果』として一般的に認識されているように思う。
その効果とはすなわち、
”『ジョーカー』の舞台となる幻影城の主・平井太郎以外のすべての関係者、および京都府警の刑事・鮎川哲子が密室教の信者であることが『コズミック』内で明かされることによって、『ジョーカー』の真相「真犯人は誰でも良いのである」にディテールが付与される”
ということである。
詳細は省くが、『ジョーカー』において、数々の殺人事件の犯人は、最終的に小杉勝利少年であると指摘される。ただし彼は実行犯であるに過ぎず、真の犯人は別に存在すること、だがその真犯人は「誰でも良い」ことが明らかになる。
『ジョーカー』単独で読んだ場合、ある種宙ぶらりんの真相で物語は幕を閉じる(それが本書の狙いでもあるだろう)。
しかし「清涼IN流水」読みをしていた場合、この真相の後に『コズミック』の後半が続く。そこでは幻影城で再び殺人事件が起こり小杉勝利少年が死亡するという展開が待っている。そして鮎川哲子の妹も”密室連続殺人”で死亡し、鮎川哲子は失踪する。
さらに読み進めていくと、幻影城の捜査中に変装した鮎川哲子が発見され、彼女と幻影城の関係者全員(平井太郎を除く)が密室教の信者であることが明らかになる。
密室教は(これまた詳細は省くが――というか書ききれない)「密室殺人事件で死んで歴史に名を残し、それによって永遠の命を得る」ことを目的とする宗教であり、『コズミック』の密室連続殺人はすべてこの密室教信者による狂言である。
すなわち『ジョーカー』で描かれた「幻影城殺人事件」にも密室教が関わっていることになる。被害者も含めて信者が望んで殺人事件を捏造する集団がいるならば、アリバイも密室トリックも、犯人指摘への推理ルートも操ることが可能である。
『ジョーカー』の真相「真犯人は誰でも良いのである」は、『コズミック』を読むことによって「密室教信者が大量に含まれる事件現場では、真犯人を指摘することは不可能だし意味を為さない」というディテールを付与されることになる。
これが、「清涼IN流水」読みの効果と一般的に考えられているものである。
……が、しかし。
本当にそうだろうか?
6 「清涼IN流水」読みの第一の(一般的な)効果に関する問題点
私は過去に『コズミック』『ジョーカー』文庫版を「清涼IN流水」読みした際には、この効果に納得していた。多くの読者も(それが本当に「生涯で未体験の刺激」であるかどうかは別として、「清涼IN流水」読みの効果は何かという問いに対する答えとしては)納得したことと思う。
それも当然で、この効果自体は正解である。
つまり誤答ではないのだ。
ではなにが問題なのか?
私が今回『コズミック』『ジョーカー』新装版を読んで引っかかったのは以下の点である。
すなわち、
”「『コズミック』を読むことによって『ジョーカー』の真相にディテールが付与される」というこの効果は、「清涼IN流水」読みをせずとも得られるものなのではないか?”
ということである。
「清涼IN流水」読みは文庫版の4冊を『コズミック流』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』→『コズミック水』の順で読むことであった。
4冊の内容について簡単に示すと以下のようになる。
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死まで。
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半。
『ジョーカー涼』:幻影城殺人事件の後半、真相。
『コズミック水』:密室連続殺人事件の20番目の死以降。その過程で幻影城関係者が密室教信者であると明かされる。
たしかにこの順番で読むことによって、幻影城殺人事件の真相に新たな意味が付与される形にはなる。
しかし、「清涼IN流水」読みをしなかったとしてもこの効果は得られるのではないだろうか?
たとえば普通にノベルスの刊行順に読んだ場合(『コズミック』→『ジョーカー』)
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死まで。
『コズミック水』:密室連続殺人事件の20番目の死以降。その過程で幻影城関係者が密室教信者であると明かされる。
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半。
『ジョーカー涼』:幻影城殺人事件の後半、真相。
あるいは作中の時系列順に読んだ場合(『ジョーカー』→『コズミック』)
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半。
『ジョーカー涼』:幻影城殺人事件の後半、真相。
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死まで。
『コズミック水』:密室連続殺人事件の20番目の死以降。その過程で幻影城関係者が密室教信者であると明かされる。
前者では、幻影城関係者が密室教信者だと知った上で幻影城殺人事件を読み進めていくことになる。衝撃は小さいが、真相を読んだ際には地に足のついたものと感じると思われる。
後者では、幻影城殺人事件終了後に、密室連続殺人事件が発生し、その中で幻影城関係者が密室教信者だったと知ることになる。衝撃の度合いとしては前者より大きいかもしれない。
……どうだろうか?
前者は、『ジョーカー』を読んでいる間の感覚こそ異なるものの、真相に至ったときの事実認識は「清涼IN流水」読みをした場合とあまり変わらないし、後者に至っては『コズミック』のほぼプロローグとでもいうべき19番目までの事件を幻影城殺人事件の前に読むか後に読むかの差があるだけで、得られる衝撃の形も「清涼IN流水」読みとほぼ同じではないだろうか。
もちろん、過去に「清涼IN流水」読みをした際には、私は充分に衝撃を受け、満足したのだが、今となってはこの効果をして、「清涼IN流水」読みの効果と言い切ってしまうことに疑問を抱いてしまう。
そうであるならば――
「『コズミック』を読むことによって『ジョーカー』の真相にディテールが付与される」という効果は、「清涼IN流水」読みの効果として誤答ではないが、しかし完全な正解でもない。なぜならば、この効果(これを第一の効果とするならば)のさらに先に、「清涼IN流水」読みの第二の効果が存在するからである。
――そう考えるのが自然ではないだろうか。
そして、実際に私はその「第二の効果」に思い至ってしまったのである。
7 第二の効果へ至る過程①:濁暑院溜水と水瀬なぎさ、そして清涼院流水
「清涼IN流水」読みの第二の効果とはなにか。
私が思い至った過程を辿って説明したい。
キーとなるのは水無瀬なぎさである。
水無瀬なぎさは天才作家として描かれる濁暑院溜水の双子の妹であり、彼女自身も作家として活動している。
濁暑院溜水は『コズミック』においては密室連続殺人事件のいわば計画書である作中作『1200年密室伝説』の著者であり、『コズミック』の前半部分(『コズミック流』)はその一部を掲載したものとなっている(正確には違うが現状では本論に大きな影響はないのでいったん置いておく)。
また『ジョーカー』はその大部分が、濁暑院溜水が幻影城殺人事件をリアルタイムで記録した原稿『華麗なる没落のために』となっている(途中で濁暑院溜水本人が犠牲者となるため執筆は中断される)。
作中の時系列としては
『1200年密室伝説』執筆
幻影城殺人事件発生
『華麗なる没落のために』執筆
幻影城殺人事件終結
密室連続殺人事件発生
密室連続殺人事件終結
となる。
さて『ジョーカー』において、濁暑院溜水の妹である水無瀬なぎさは、兄の意志を継いで『華麗なる没落のために』を完成させ刊行することを決める。兄の死以降の出来事を加筆し、解決編も加えたそれは『浄華』というタイトルになると書かれる。
しかし、最終的に刊行された本は『コズミック・ジョーカー』というタイトルで、著者名は水無瀬なぎさでも濁暑院溜水でもなく「清涼院流水」であった。
時系列に加えると、
『1200年密室伝説』執筆
幻影城殺人事件発生
『華麗なる没落のために』執筆
幻影城殺人事件終結
密室連続殺人事件発生
密室連続殺人事件終結
『コズミック・ジョーカー』刊行
となる。
8 第二の効果へ至る過程②:二つの疑問点の提示と疑問点Aへの回答
ここで二つの疑問点が浮かび上がる。
A:『浄華』から『コズミック・ジョーカー』へのタイトル変更の理由はなにか?
B:ペンネームが清涼院流水となっている理由はなにか?
ここからは推測を重ねるしかない。
まず疑問点A、タイトル変更の理由について。
「浄華」と書いて「ジョーカー」と読ませるタイトルに「コズミック」を加えた理由は、水無瀬なぎさが『コズミック』の内容、すなわち密室連続殺人事件を含めて一冊の本にまとめて刊行したからだと考えられる。
水無瀬なぎさは初めは幻影城殺人事件についての本を刊行するつもりだった。しかし直後、密室連続殺人事件が発生し、しかもそれが幻影城殺人事件と深く結びついていることを知った。
そのため、密室連続殺人について詳細に記したパートを書き加え、事件の全体像を明らかにする本を刊行した。それが『コズミック・ジョーカー』である。
そして、濁暑院溜水の原稿『1200年密室伝説』と『華麗なる没落のために』に水無瀬なぎさが加筆し、清涼院流水の筆名で刊行した『コズミック・ジョーカー』の、密室連続殺人事件について記したパートが、現実世界で私たちが手にしている『コズミック』であり、また幻影城殺人事件について記したパートが『ジョーカー』である、と言うことができるだろう。
『浄華』から『コズミック・ジョーカー』へのタイトル変更の理由は、『コズミック』と『ジョーカー』を読んだ読者に対して、水無瀬なぎさの刊行した本が、現実世界に存在する『コズミック』と『ジョーカー』であると知らしめるため、と言って良いのではないか。
9 「清涼IN流水」読みの第二の効果
疑問点Bの検討をいったん保留し、明らかとなった結論を述べてしまおう。
「清涼IN流水」読みの第二の効果とは、
”水無瀬なぎさが清涼院流水名義で刊行した『コズミック・ジョーカー』が、読者が手にしている『コズミック』と『ジョーカー』そのものであると明らかにする”
ことである。
その論拠をいくつか挙げておきたい。
第一に、文庫版の『コズミック水』『ジョーカー涼』の末尾には、文庫版の『コズミック』と『ジョーカー』4冊を読了している場合には「『コズミック・ジョーカー』完結」であると記されている。
これは『コズミック』と『ジョーカー』を合わせて読めば、それが『コズミック・ジョーカー』として作中で提示されている水無瀬なぎさの著作と同一のものになる、という意味に捉えて良いだろう。
第二に、水無瀬なぎさが刊行した『コズミック・ジョーカー』は正確には、『ジョーカー』ノベルス版では『コズミック・ジョーカー 世紀末旧約探偵神話』で1997年1月5日に、『ジョーカー』文庫版では『コズミック・ジョーカー 流水の中の清涼』で2000年5月15日に刊行となっている。
1997年1月5日はノベルス版の『ジョーカー』の、2000年5月15日は文庫版『ジョーカー涼』の奥付に記された刊行日である。ここにも、読者が手にしている本が、水無瀬なぎさの著作と同一であることの主張が見られるだろう。
さらにいえば「世紀末旧約探偵神話」はノベルス版『ジョーカー』の副題「旧約探偵神話」を同じく『コズミック』の「世紀末探偵神話」で挟み込んだもの(「探偵神話」の部分は重複するので省かれた)と読めるし、「流水の中の清涼」に至ってはまんま「清涼IN流水」の意味である。
これは『コズミック・ジョーカー』が単に『コズミック』と『ジョーカー』の2冊と同じ内容であることだけでなく、『コズミック流』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』→『コズミック水』の形でまとめられている本である、という主張にも読み取れる。
第三に『永遠の輪廻』の存在である。
これは『ジョーカー』内で濁暑院溜水の著作の一つとして紹介されるが、実際にはまだ書かれていない幻の大作であることが明かされる。
九十九十九と刃仙人の会話の中で、『永遠の輪廻』は濁暑院溜水が(自分が死ぬ時点までの)幻影城殺人事件をリアルタイムで記述した『華麗なる没落のために』を作中作とし、濁暑院溜の死後についても別の人物が記した本になる、と言及される。
一方で『永遠の輪廻』は『華麗なる没落のために』の中では「一年前に完成した」作品だと明記されている。
つまり『永遠の輪廻』とは水無瀬なぎさが濁暑院溜水の後を引き継いで幻影城殺人事件の全容を描いた作品、すなわち『ジョーカー』であり、同時にそれ以前に完成した作品、すなわち『コズミック』を暗示してもいる、と言える。
そしてそれは最終的に『コズミック・ジョーカー』として刊行されることになる。
ここで一点注目したいのは、九十九十九と刃仙人が『永遠の輪廻』に関して言及している会話も、『ジョーカー』の本文である以上、水無瀬なぎさが記したものである、という点である。
10 保留した疑問点Bへの回答――第二の効果のさらに先にあるもの
ここでようやく先ほどの疑問点Bへの回答が見えてくる。
確認すると疑問点Bは、
”『コズミック・ジョーカー』の著者のペンネームが清涼院流水となっている理由はなにか?”
である。
濁暑院溜水が『1200年密室伝説』と『華麗なる没落のために』を執筆した。水無瀬なぎさはその原稿に加筆する形で連続密室殺人事件と幻影城殺人事件の全容をまとめ、「清涼院流水」というペンネームで『コズミック・ジョーカー』として刊行した。それが、読者が手にしている『コズミック』と『ジョーカー』と同一のものである、ということが判明した。
すなわち『コズミック』と『ジョーカー』に書かれている文章は全て、濁暑院溜水が執筆したものか、それに水無瀬なぎさが手を入れたもの、及び水無瀬なぎさが加筆したものということになる。
であるならば『永遠の輪廻』に関する九十九十九と刃杣人の会話は、実際に2人が交わしたかどうかに関わらず、水無瀬なぎさが記したものである。つまり著者である水無瀬なぎさが何らかの意図を持って本に加えたものであり、その意図が『コズミック』と『ジョーカー』の関係性の示唆であると考える補強材料となるだろう。
『永遠の輪廻』に関する部分だけでなく、『コズミック』と『ジョーカー』の文章はすべて、水無瀬なぎさが刊行にあたって執筆・推敲・校正を行っていることになるから、水無瀬なぎさによる意図が含まれていると考えるべきだろう。
そして、水無瀬なぎさは『コズミック・ジョーカー』を清涼院流水の名で刊行した。これは、(作中での意味としては)自分と濁暑院溜水の合作であるため、別のペンネームを用いた、と考えることができる。
しかし、さらに大きな視点から見れば、ここで『コズミック・ジョーカー』の著者を清涼院流水とすることで、読者の立ち位置の大変動が起こる。そしてこれこそが「清涼IN流水」読みの第一の効果と第二の効果を経て得られる、真の「生涯で未体験の刺激」であると考える。
11 「清涼IN流水」読みによる第二の効果についての検証①:「清涼IN流水」読みの必然性の否定
真の「生涯で未体験の刺激」とはなにか。
具体的に述べていきたいところだが、ここでひとつ回り道をしなければならない。
何かというと、
”「清涼IN流水」読みの第二の効果は本当に「清涼IN流水」読みをしなければ得られないものなのか”
という点についての検証である。
そもそもこの記事自体が、「清涼IN流水」読みの第一の効果すなわち、
”『ジョーカー』の舞台となる幻影城の主・平井太郎以外のすべての関係者、および京都府警の刑事・鮎川哲子が密室教の信者であることが『コズミック』内で明かされることによって、『ジョーカー』の真相「真犯人は誰でも良いのである」にディテールが付与される”
が、「清涼IN流水」読みをせずとも得られるのではないかという疑問から生まれたものなのだから、この検証は必須であると言えるだろう。
くどいようだが、「清涼IN流水」読みとは、文庫版の4冊を『コズミック流』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』→『コズミック水』の順で読むことである。
そしてその4冊の内容は、
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死まで。
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半。
『ジョーカー涼』:幻影城殺人事件の後半、真相。
『コズミック水』:密室連続殺人事件の20番目の死以降。その過程で幻影城関係者が密室教信者であると明かされる。
といったものである。
「清涼IN流水」読みの第二の効果すなわち、
”水無瀬なぎさが清涼院流水名義で刊行した『コズミック・ジョーカー』が、読者が手にしている『コズミック』と『ジョーカー』そのものであると明らかにする”
は、本当に4冊をこの順で読むことで(のみ)得られるものだろうか。
その答えは残念ながらノーである。
水無瀬なぎさが『コズミック・ジョーカー』を清涼院流水名義で刊行した事実や、上記で述べた『永遠の輪廻』に関する九十九十九と刃仙人の会話は『ジョーカー涼』に集中しており、その意味は必ずしも『コズミック水』の前に読まなければ見えてこないものではない。
第二の効果を(より読書体験として面白いという意味で)効果的に得るならば、『コズミック流』→『コズミック水』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』の順、すなわち普通にノベルス時の刊行順に読むのが一番良い。
「清涼IN流水」読みの第一の効果は(人により意見の相違はあるかと思うが)『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』→『コズミック流』→『コズミック水』の順、すなわち作中の時系列順に読むのが一番衝撃が大きいという結論であった。
一方第二の効果は『コズミック流』→『コズミック水』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』のノベルス刊行順に読むのが一番良い。
『コズミック』と『ジョーカー』どちらを先に読むかで違う衝撃が得られる、という意味はあるものの、第一の効果・第二の効果どちらの検証でも「清涼IN流水」読みをすることに必然的な理由はない、という結論が導き出されてしまった。
しかし、本当にそうだろうか?
12 「清涼IN流水」読みによる第二の効果についての検証②:既知の情報と未知の情報についての整理
これは想像だが、多くの読者はまず通常の読み方(『コズミック』→『ジョーカー』という刊行順、もしくは『ジョーカー』→『コズミック』という作品内時系列順)をしたあとに、「清涼IN流水」読みの順番で再読しているのではないだろうか。もしくは、再読することなしに脳内でそれぞれの内容を並べ替え、補完しているかもしれない。
しかしその場合大きな問題が発生する。
それは”読んでいる最中には未知だった情報を、勝手に既知の情報に置き換えてしまう”ということである。
そしてこの問題は、初読が「清涼IN流水」読みだったとしても、読みながら、あるいは読み終わった後に内容を整理している際にも発生する。
具体的に考えていこう。
文庫版の4冊の内容……
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死まで。
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半。
『ジョーカー涼』:幻影城殺人事件の後半、真相。
『コズミック水』:密室連続殺人事件の20番目の死以降。その過程で幻影城関係者が密室教信者であると明かされる。
……ここに補足を加える。
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死まで(濁暑院溜水著『1200年密室伝説』の一部)
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半(濁暑院溜水著『華麗なる没落のために』の一部)
『ジョーカー涼』:幻影城殺人事件の後半、真相(途中まで濁暑院溜水著『華麗なる没落のために』の一部、途中から水無瀬なぎさによる文章)
『コズミック水』:密室連続殺人事件の20番目の死以降。その過程で幻影城関係者が密室教信者であると明かされる(水無瀬なぎさによる文章)
それぞれの文章が誰によって書かれたものなのかをカッコ内に追記した。
ここで重要なのは、このこと(それぞれの文章が誰によって書かれたか)が明らかになるタイミングである。
13 「清涼IN流水」読みによる第二の効果についての検証③:記述者に関する情報開示――初読者が『清涼in流水』読みをしたら?
『コズミック流』が濁暑院溜水著『1200年密室伝説』の一部(正確には、その人物名を実際の事件のものと置き換えたもの)であると明らかになるのは『コズミック水』においてである。
『ジョーカー清』および『ジョーカー涼』の前半が濁暑院溜水著『華麗なる没落のために』の一部であると明らかになるのは『ジョーカー涼』の後半においてである。
『ジョーカー涼』の後半と『コズミック水』が水無瀬なぎさによる文章である(そして『コズミック』と『ジョーカー』の全体が濁暑院溜水と水無瀬なぎさの共通ペンネームである清涼院流水の『コズミック・ジョーカー』である)と明らかになるのは『ジョーカー涼』の終盤である。
この事実を踏まえて、”読んでいる最中には未知だった情報を、勝手に既知の情報に置き換えてしまう”という、いわば既読者バイアスとでもいうべきものを排除して、「清涼IN流水」読みをした場合の情報開示を記していこう。
これはいわば”完全な初読者が「清涼IN流水」読みをしたらどうなるのか”という思考実験といえる。ここでカッコ内は、「「清涼IN流水」読みの順番による文庫4冊を1冊の本(すなわち『コズミック・ジョーカー』という一つの物語)と捉えた場合の、その1冊の本に対する読者の認識の変化を示している。
『コズミック流』:密室連続殺人事件の19番目の死までを、三人称神視点の物語として読む(通常の小説)
『ジョーカー清』:幻影城殺人事件の前半を、三人称神視点の物語として読む(通常の小説)
『ジョーカー涼』:
途中で、幻影城殺人事件の記述が濁暑院溜水著『華麗なる没落のために』であると知る(『ジョーカー清』と『ジョーカー涼』の途中までが作中作になる)
濁暑院溜水死後の文章は再び三人称神視点の物語として読む(一部が作中作となっている通常の小説)
終盤で、密室連続殺人事件と幻影城殺人事件の全ての記述が、水瀬なぎさによってまとめられた文章であると知る(現実にあった事件を水無瀬なぎさがまとめた事件記録)
『コズミック水』:『コズミック流』の部分が濁暑院溜水の文章(を一部改変したもの)であったことを知る(『コズミック・ジョーカー』全体は、前半が濁暑院溜水による文章、後半が水無瀬なぎさによる文章の事件記録となる)
14 「清涼IN流水」読みによる第二の効果についての検証④:『コズミック・ジョーカー』という存在の意味の変化
どうだろうか?
こうしてみると、「清涼IN流水」読みをすることで”『コズミック・ジョーカー』という1冊の本”は通常の小説→作中作を含む通常の小説→前半を濁暑院溜水が書きその死後水無瀬なぎさが補完・編集を施した事件記録……とその存在そのものの意味を変化させていくことがわかるのではないだろうか。
読者が読んでいる本の存在そのものの意味が変化する……実はこれこそが「清涼IN流水」読みをすることの必然的な理由ではないだろうか。
その証明は一つの事実を指摘するだけで充分である。
すなわち、この順番でなければ『コズミック・ジョーカー』が”前半が濁暑院溜水による文章、後半が水無瀬なぎさによる文章の事件記録”という形にならないから、だ。
”『コズミック・ジョーカー』とは通常の小説ではなく、濁暑院溜水という天才の絶筆原稿を、双子の妹である水無瀬なぎさが引き継いで完成させ、清涼院流水という共同ペンネームで刊行した、幻影城殺人事件と密室連続殺人事件の事件記録である”
「清涼IN流水」読みはそのことを示すための仕掛けであり、第一の効果は”水無瀬なぎさが二つの事件を一つの本にまとめるに至った経緯”を、第二の効果は”その事件記録が、読者がまさに手にしている『コズミック』と『ジョカー』であること”を表している、と言えるのではないか。
さて、回り道が本流へと戻ってきたようである。
15 ”清涼院流水”消失事件
ここにすべての条件が出揃ったように思う。
つまり
タイトル:『コズミック・ジョーカー』とは、作中で刊行された作品のタイトルのはずだったが、読者(私たち)が手にした『コズミック』と『ジョーカー』の文庫本4冊をひとつにまとめた書物のタイトルでもあることが明らかになった。
著者名:清涼院流水とは、読者(私たち)が手にした書籍の著者(京大出身のメフィスト賞受賞者)のペンネームのはずだったが、作中の登場人物である濁暑院溜水と水無瀬なぎさの共同ペンネームでもあることが明らかになった。
内容:『コズミック・ジョーカー』の本文は、読者(私たち)が手にした文庫本4冊を『コズミック流』→『ジョーカー清』→『ジョーカー涼』→『コズミック水』の順で読んだ場合と同じものであることが明らかになった。
の3点である。
この3点によって読者(私たち、すなわち作中人物ではなく実在する人間)の手元に『コズミック・ジョーカー』が現出した。
ここで考えてみてほしい。
私たち読者は、
”自分が手にしたこの本の著者「清涼院流水」が本当に京大出身のメフィスト賞受賞者であり、作中に書かれているような濁暑院溜水と水無瀬なぎさの共同ペンネームでないこと”
を証明できるだろうか?
なんなら作中には清涼院流水が前者である記述などどこにもなく、むしろ後者であること、そして清涼院流水が『コズミック・ジョーカー』という作品を記すことになった経緯が詳細に示されている。
ならば私たち読者は、清涼院流水は濁暑院溜水と水無瀬なぎさの共同ペンネームであるということをこそ真実として受け入れるべきなのではないだろうか?
こうして『コズミック・ジョーカー』を読んだ者の中において、京大出身のメフィスト賞受賞者である清涼院流水が消失し、濁暑院溜水と水無瀬なぎさの共同ペンネームとしての清涼院流水が立ち現れることになる。
16 『コズミック・ジョーカー』は読者をどこへ導くか
「清涼院流水」は濁暑院溜水と水無瀬なぎさの共同ペンネームとなり、『コズミック』と『ジョーカー』は『コズミック・ジョーカー』という一冊の本となり、その内容はフィクションではなく実在の事件を扱った事件記録となった。
「清涼IN流水」読みをすることにより、私たち読者の手元に「濁暑院溜水と水無瀬なぎさが清涼院流水という共同ペンネームで著した、幻影城殺人事件と密室連続殺人事件の事件記録としての『コズミック・ジョーカー』」が出現したのである。
私たちはもはや、そこに書かれた内容を実際の事件として受け入れることになる。
これこそが、先に言及した読者の立ち位置の大変動、そして「清涼IN流水」読みの第一の効果と第二の効果を経て得られる、真の「生涯で未体験の刺激」である、と私は考える。
幻影城殺人事件と密室連続殺人事件という(ある意味荒唐無稽な)物語である二つの事件に対し、私たちは、それをフィクションとして楽しむ外側の人間であるはずだった。
しかし気づけばフィクションであったはずの手元の本は現実の事件の事件記録に変容しており、私たちはこの(荒唐無稽な)二つの事件が実在する世界の住人になってしまっている。
こうして『コズミック・ジョーカー』は読者を幻影城殺人事件と密室連続殺人事件が存在する世界へと導くのである。
17 荒唐無稽な大量の死の忘却
ここからは想像である。
手元の本が現実の事件記録であると言われても、納得いくものではないだろう。
当たり前だ。
幻影城殺人事件も密室連続殺人事件も、私たちはまったく見聞きしていないのだから(密室連続殺人事件に至っては、九十九十九がテレビ放送で解決編を披露している。視聴率99.99%のあの番組が実際に放送されたなら、記憶していないはずがないだろう)
では結局『コズミック・ジョーカー』が私たちを導いた、2つの事件が実在する世界とは虚構に過ぎないのか。
そうではない。
おそらく『コズミック・ジョーカー』は読者にこう問うのだ。
”あなたたちは、現実に起こったこれだけの大量の死を忘却したのか?”
と。
幻影城殺人事件と密室連続殺人事件という荒唐無稽なまでの大量の死、それが実在する世界に私たちは導かれた。
しかし「大量の死」はこの2つの事件だけではない。
無数に起こる死を、私たち読者(少なくともその大多数)は書籍や映像といった何らかのフィルターを通してしか知らない。
その構造は『コズミック・ジョーカー』を通してしか2つの事件を知ることができないのと何ら変わらない。
私たちは『コズミック・ジョーカー』をフィクションと思い込んでいたように、現実の大量の死をフィクションのように感じ、消化していないだろうか?
だが、私たちが生きているのは、荒唐無稽な大量死がどこかに確かに存在している(そしてそれがいつ周囲や自らに襲いかかるかわからない)世界なのではなかっただろうか?
私たちが忘れているそんな危機感を呼び覚ます。
「清涼IN流水」読みの「生涯で未体験の刺激」とはこのことだったのではないだろうか?
18 結論――忙しい人向け「ここだけでも読んで」パート
思いの外長くなってしまった。
最後にまとめておきたい。
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「清涼IN流水」読みには2つの効果がある。
第一の効果は”『ジョーカー』の舞台となる幻影城の主・平井太郎以外のすべての関係者、および京都府警の刑事・鮎川哲子が密室教の信者であることが『コズミック』内で明かされることによって、『ジョーカー』の真相「真犯人は誰でも良いのである」にディテールが付与される”というものであり、これが一般的に認知されている効果である。
しかし効果には2つ目が存在する。
第二の効果は”水無瀬なぎさが清涼院流水名義で刊行した『コズミック・ジョーカー』が、読者が手にしている『コズミック』と『ジョーカー』そのものであると明らかにする”というものである。
この2つの効果によって読者が持つ本は『コズミック・ジョーカー』と同一化し、読者は幻影城殺人事件と密室連続殺人事件が本当に起こった世界へと導かれる。
そのことにより、自分たちが生きている世界が荒唐無稽な大量死が存在している世界であると思い出させることが、「清涼IN流水」読みによって得られる「生涯で未体験の刺激」のことなのではないだろうか?
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19 さいごに
ずいぶん長くなってしまった。
ここまで読んでくれた方に、さらにお願いをするのは心苦しい限りだが、もしよろしければ……
これが「清涼IN流水」読みをした人なら当たり前に気づけることだから誰も言及していないのか、あるいは逆に単なる私の妄想なのか、あるいは千二百分の一くらいの確率で新たな発見なのか。
……といったご意見をコメントでいただけるととても嬉しい。
しかしいっさいの反応がなかったとしても、自分の人生を変えるレベルでどハマりした作品を久しぶりに再読したことで新たな発見があり、それについて考察するというのは非常に刺激的な活動だったことは確かである。
最後に蛇足を承知で書いておくと、星海社にはぜひ、JDCシリーズの残り2作品、『カーニバル』と『彩紋家事件』の新装版の刊行もぜひお願いしたいところである。