これは誰のものでしょうか?
コップに入ったお水があります。
「どうぞ」と、目の前に差し出されたそれは、誰のお水ですか?
水筒に入れて自宅から持ってきた水があります。
それは、誰のお水ですか?
飲んだあと、排泄しました。
誰のお水ですか?
コンビニでお水を買いました。
誰のお水ですか?
その前は誰のお水でしたか?
その前は…?
こう考えていくと、わたしたちが本当の意味で所有しているものってあるのでしょうか。
夫だったり恋人だったり。
「わたしの彼です」という言葉に間違いはないけれど、この「わたしの」というのを所有だと思い始めてしまうと、自分の思い通りにならないことに違和感や怒りを感じてしまうのかもしれません。
子どもだってそう。
「わたしの」というのは、わたしから見たその人との関係性というだけで、わたしの所有ではないことをして忘れてはいけないなぁと思うのです。
秋頃、街にクマが出たというニュースがたくさん聞かれました。
そしてそのクマを殺処分したことへの抗議の言葉が絶えず届いたということも。
そこで暮らしている人にとって、クマの存在は命を脅かすもの。身を守る手段として、命を奪うことも時に必要なことでしょう。
わたし自身もお肉やお魚もいただくので、命の営みとして何も殺さないというのはないと思っています。
でも、違和感を感じるとしたら。
そこが人里で、人間の場所だという極端な主張があることでしょうか。
森と人里でそれぞれが暮らしていたときはよかった。
人の住む場所にクマが出てこなければならない何が事情があったのではないでしょうか。
その根本の問題を無視して、人間様の所有する土地に入ってくるよそ者は全て排除という思考になってしまうことが不協和音なのだと感じるのです。
道路は人間のものだからと言う理由で鳩を轢いた人がいたようです。
その道路は、本当に人間のものなのかな。
あなたの持ち物はなんですか?
わたしの体でさえ、食べたものからできているのだし、死んだらどこかへ還ります。
となると、本当に自分のものといえるのはわたしの思考だけ。
でも、その思考ですら脳の神経を通した電気信号なのかと思うと。わかりませんね。
あなたの持ち物はなんですか?
わたしが、わたしが、という所有している感を少し弱めて、今このモノやヒトとの関係があるというふうに考えられたら。
世界はもっと優しくなれるのかな。